遊び相手と戦争ごっこも… あらわとなった“名将”の資質

昭和天皇の87年
画=井田智康

昇陽の日々(2)

 明治39年5月4日、《この日より(裕仁親王は)雍仁(やすひと)親王と共に、規則を立てての幼稚園課業をお始めになる》(昭和天皇実録1巻130頁)

 裕仁親王は5歳になったばかり、雍仁親王はもうすぐ4歳。ただし幼稚園課業といっても、多数の園児のいる施設に通うのではなく、皇孫仮御殿内で同年代の「御相手」と一緒に学ぶ形式である。

 課業の内容は礼の作法、粘土細工、自由遊戯、唱歌など。御相手は8人で、学習院通学の1人を除く7人が2組に分かれ、1日おきに仮御殿に通った。

 皇孫御養育掛長の丸尾錦作によれば、起床は遅くても午前6時半。まず侍医の診察を受け、伊勢皇大神宮の神札と天皇皇后、皇太子同妃の御真影に朝拝。朝食後に30分の休憩があり、午前9時から幼稚園課業。午後は御相手と一緒に「運動遊戯を遊ばす」というのが日課である。

 幼稚園の様子を嘉仁皇太子や節子皇太子妃が見学することもしばしばあった。昭和天皇実録にはこの頃、《皇太子妃がお成りになり、端午の節句の人形飾り、幼稚園の御模様を御覧になる》(1巻131頁)、《皇太子・同妃御参殿につき、(裕仁親王は)雍仁親王と共に皇孫仮御殿内の幼稚園へ御案内になり、積木・唱歌等の様子を披露される》(同巻135頁)などの記述が散見される。

 御相手がいることで、遊びのバリエーションも増えた。木登り、椅子取り、鬼事、尻尾取り…(※1)。御相手はそれぞれの親などから、遠慮しないよう、わざと負けたりしないよう言い含められており、ときには玩具の取り合いなどもしたことだろう。

 戦争ごっこもした。

 《(裕仁親王は)かねてより雍仁親王及び御相手と共に、戦事のお遊びをしばしばされる。この日は初めてランドセルを背負われ、鉄砲玩具をお持ちにて僊錦閣(せんきんかく)前までお出ましになり、御自身で御工夫の戦事をされる》(2巻25頁)

 裕仁親王は、いつも一方の指揮官役だった。当時の様子を、のちに丸尾がこう述懐している。

 「御相手と申しても無邪気な子供のことであるから、我儘(わがまま)を言つて容易に、御仰(おお)せに従はない時もあるが、其(それ)を巧(たくみ)に統御遊ばして行かれる段は傍で拝見してゐて感に打たれることが屡々(しばしば)あつた」

 保母の足立孝もこう振り返る。

 「何時も、陛下(裕仁親王)には指揮官とお成り遊ばし、淳宮(あつのみや)殿下(雍仁親王)は御兄宮様の部下にお成りになつて、決して敵味方にお別れになるやうなことはありませんでした。そのお仲のお睦じいことは、お側に奉仕する者の何時もお喜び申上げてゐたことで御座います」

× × ×

 そんな裕仁親王の幼稚園時代は、充実していたといえるだろう。

 東宮御所と皇孫仮御殿とは庭つづきで、両親である嘉仁皇太子と節子皇太子妃の愛情を身近に感じることもできた。昭和天皇実録には《皇太子・同妃、典侍柳原愛子(なるこ※2)等を伴い御参殿につき、(裕仁親王は)雍仁親王及び御相手とのお遊びの様子を披露される。鬼事の際には、皇太子・同妃も招き入れられ、御一緒にお遊びになる》(1巻137頁)などの記述も少なくない。こうした触れ合いは、学習院初等学科1~2年生の頃までひんぱんにあったようだ。

 嘉仁皇太子の学友で、のちに侍従次長を務める甘露寺受長(おさなが)が振り返る。

 「大正さま(嘉仁皇太子)は、ごくお気軽なお方で、縁のほうからドンドン(皇孫仮御殿の敷地内に)おはいりになった。妃殿下もご一緒だった。そして、迪宮(みちのみや)さまや、淳宮さまや、光宮(てるのみや・高松宮)さまや、お学友たちにまじって、鬼ゴッコやしっぽ取りなどをしてお遊びになった。妃殿下も、われわれ侍従も、武官も、養育掛も、女官も、いっしょになってやったこともあった。まったく楽しい雰囲気だった」

 もっとも、家族がひとつ屋根の下で一緒に暮らしているわけではない。夏と冬は栃木県日光や静岡県沼津に長期滞在するため、離ればなれになる。両親に甘えたい盛りに、自由に会えない寂しさはあっただろう。

 明治40年3月、沼津の御用邸西附属邸(旧川村純義別邸)に避寒で滞在していた時のことだ。嘉仁皇太子と節子皇太子妃が近接する御用邸本邸に来ることになったため、裕仁親王は門前で待っていた。しかし馬車が通り過ぎる時、皇太子妃とは目を合わせたが、反対側に座っている皇太子の顔を見ることができなかった。

 5歳の裕仁親王は、じっとしていられなかった。

 《(裕仁親王は)二、三歩前に進み出られ、「おもう様、おもう様、おもう様」と声を限りに呼びかけられる。それより皇太子に御拝顔のため直ちに本邸にお入りなることを希望されるも、側近に諫められ、一旦御帰邸の後、改めて(中略)本邸に参邸され、皇后並びに皇太子・同妃に御拝顔になる》(2巻14頁)

 裕仁親王は、久しぶりに会うおもう様(父)とおたた様(母)に、思いっきり甘えたかったのだろう。昭和天皇実録には、むずかる裕仁親王を皇太子と皇太子妃が優しくなだめる様子も描かれている。

 だが、やがて天皇となる身だ。甘えられる時期は短い。41年4月、裕仁親王は学習院初等学科に入学する。いよいよ帝王教育が本格的に始まるのだ。

 出迎えたのは、その前年に第10代学習院長となった日露戦争の英雄、乃木希典(まれすけ)である--。

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載 来週からは、少年時代の昭和天皇が乃木希典と東郷平八郎の指導を受け、将来の天皇としての資質を磨いていく「帝王教育」編を連載します)

(※1)鬼事は鬼ごっこ、尻尾取りはズボンの後ろにハンカチをはさんで取り合うゲーム。裕仁親王のお気に入りだったという。

(※2)柳原愛子は明治天皇の側室で、裕仁親王の実の祖母。

【参考・引用文献】

○宮内庁編『昭和天皇実録』1巻、2巻

○田中光顕監修、長野新聞編『聖上御盛徳録』(長野新聞)

○丸尾錦作謹話「天晴未来の明君」(『聖上御盛徳録』所収)

○鈴木(旧姓・足立)孝謹話「幼稚園御修業のころ」(同)

○甘露寺受長著『背広の天皇』(東西文明社)