【昭和天皇の87年】幼少期から抜群だった記憶力 弟思いの性格も - 産経ニュース

【昭和天皇の87年】幼少期から抜群だった記憶力 弟思いの性格も

画=井田智康
昇陽の日々(1)
 日露戦争が終わって間もない明治38年9月26日、裕仁親王と雍仁(やすひと)親王の養育責任者だった東宮侍従長の木戸孝正が、体調不良を理由に養育の務めを辞した。
 代わって大任を託されたのは、嘉仁皇太子(のちの大正天皇)の信任があつい東宮侍従、丸尾錦作である。
 丸尾は皇太子の学習院初等科時代の担任で、教育は「厳しいのがいちばん」が口癖だった。
 先の大戦前に侍従次長を務めた甘露寺受長(おさなが)が、こんなエピソードを書き残している。
 --ある日のこと、裕仁親王は庭での遊びに夢中になり、帰りの時間が遅れてしまった。すると丸尾は、「時間をお忘れになるとは何事です。うちへお入れしません」と叱りつけ、玄関に立ちふさがってどうしても通さなかった--。
 のちに裕仁親王は、人と会うときなど「1分も早くなく、1分も遅くなく」を自らに律するが、それは丸尾の影響もあったと甘露寺は書く。
 丸尾が皇孫御養育掛長に就任した翌月、裕仁親王の生活環境を変える、もう一つのことがあった。
 遊びの「御相手」ができたのだ。
 同年10月13日《午後、裕仁親王・雍仁親王の御相手として参殿の華族女学校幼稚園児久松定謙・稲葉直通・千田貞清・山岡重幸の四名(※1)及び付き添いの学監下田歌子・助教野口ゆかに謁(えつ)を賜(たま)い、御庭にて御相手と御一緒にお遊びになる》(昭和天皇実録1巻99頁)
 同月21日《午後、(裕仁親王は)雍仁親王と共に、御相手を伴い東宮御所に御参殿になり、皇太子・皇太子妃へ御相手を御紹介になる》(同巻100頁)
 この頃つくられた「皇孫御養育掛分課内規」によれば、御相手は「華族及宮内高等官ノ子弟ニシテ皇孫ト御同年齢ノ者」から選ばれ、「皇孫御遊戯等ノ御合手ヲ為ス」とされた。以後、御相手は少しずつ増え、交代で遊びにくるようになる。
 それまで裕仁親王の同年代の遊び相手は、1歳下の雍仁親王だけだった。大勢の子供たちが戦争ごっこなどに興じるのを、遠くに見ているしかなかった。
 しかし、これからは違う。
 昭和天皇実録には、両親王が御相手と一緒に芋掘りをしたり、鬼ごっこをしたりする様子がしばしば記されている。子供は順応が早い。両親王はすぐに打ち解けたことだろう。
 一方、養育担当者からみて、好ましくない影響もあったようだ。
 39年6月14日《頃日、御相手の用いる「此やつ」「ヤイ」「ウン」等の言葉を御使用につき、皇孫御養育掛長丸尾錦作より、御使用を慎むべき旨の言上を受けられる》(同巻136頁)
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 幼少期の裕仁親王の発育状況を知る資料として、昭和54年に見つかった「迪宮(みちのみや)殿下淳宮(あつのみや)殿下御状況報告」がある(※2)。明治から大正にかけて内相や首相を歴任した原敬が保管していたもので、裕仁親王4歳、雍仁親王3歳のときの記憶力、理解力、推理力などについて、以下のような内容が記録されている。
 明治38年12月報告
 【記憶】〈裕仁親王〉姓名、人の所作などの記憶がとてもよく、1年あるいは2年前のことでもよく記憶していて、日々驚かされることが多い。〈雍仁親王〉迪宮ほどではないが、普通児よりははるかによく、一度止めたことは決して再びすることはない。「いけない いうたから しない」と言っている。
 【理解】〈裕仁親王〉数については、7月頃にはまだ2という数の概念も十分でなく、物の数をかぞえようという考えはほとんどなかったが、次第に進歩し、今は5までは会得している。〈雍仁親王〉数についての概念は、とても少なかったが、今は4まではしっかり数へられる。
 【推理】〈裕仁親王〉想像力が強いとともに、何事によらず推理されることも多い。〈雍仁親王〉年にもまして、とても強い。
 【友愛】〈裕仁親王〉弟宮たちを思う心の厚いことは、とても立派で、一片の紙すら自分が得たなら必ず淳宮にと言う。〈雍仁親王〉5~6月頃には、少しでも兄宮の手が自分の玩具に触れることがあれば、「いけない、悪いおにいちゃま」と言っていたが、今は折り紙一つあげても「御兄様のないから、拵(こし)らえてくれ」と言う。
 【気象】〈裕仁親王〉積極的、破壊的、創造的であり、玩具で動物園ひとつ作っても、壊してはまた作り直し、幾度となくさまざまに工夫して遊ぶ。〈雍仁親王〉守成的であり、積み木なども、一つ積み立てるとなかなか壊さず、見て楽しむ。
 このほか報告には、裕仁親王が以前はハエやバッタなどを捕まえて酷たらしく扱っていたこと、しかし最近は何事でも「かわいそうだから」と言えば許すようになったこと、沈着した態度は「いまた御発達あそばされ」ないことなどが、詳細に記されている。
 皇孫御養育掛長の丸尾錦作らは、こうした観察を定期的に行うことで、両親王の短所を改め、長所を伸ばしていったのだろう。
 翌39年5月からは、いよいよ幼稚園生活が始まる。そして両親王は、ますます視野を広げていく--。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)
(※1)最初の「御相手」となった久松定謙は伯爵・久松定詮の子、稲葉直通は子爵・稲葉順通の子、千田貞清は男爵・千田貞暁の孫、山岡重幸は陸軍砲兵中佐・山岡熊治の子。
(※2)裕仁、雍仁両親王の「御状況報告」は、両親王の養育担当者らが作成したのを、原敬が内相だったときに入手したものとみられ、戦後に盛岡市の旧原敬別邸の倉庫から見つかった。
【参考・引用文献】
○宮内庁編『昭和天皇実録』1巻
○高橋紘著『人間 昭和天皇(上)』(講談社)
○甘露寺受長著『背広の天皇』(東西文明社)
○原敬文書研究会編『原敬関係文書』別巻(日本放送出版協会)