アジアを奮い立たせた勝利 「太陽の国が、明るい光を与えた」

昭和天皇の87年
画=井田智康

日本海海戦(6)

 明治38年5月28日、極東の太陽に照射され、日本海を航走するバルチック艦隊は、わずか5隻に激減していた。

 空は澄みわたり、敗残の艦隊を隠す靄(もや)ひとつない。指揮をとるロシア第3太平洋艦隊司令長官のネボガトフは、絶望的な気持ちだっただろう。

 前日の激戦でバルチック艦隊の旗艦スウォーロフは沈没し、頭部に重傷を負った司令長官ロジェストウエンスキーはネボガトフに、「指揮権を譲る。ウラジオストクへ回航せよ」との命令を発した。

 そのウラジオストクまであと一昼夜の距離。だが、奇跡でも起きない限り無事には到着できまい。むろん奇跡は起きなかった。

 28日午前10時30分、ネボガトフが率いる戦艦2隻、装甲海防艦2隻、巡洋艦1隻は、島根県竹島沖で東郷平八郎の連合艦隊第1、第2、第4、第5、第6戦隊に包囲された。

 戦艦と巡洋艦だけで計20隻以上、加えて俊足の駆逐艦も多数いる。圧倒的な兵力差を見せつけられたネボガトフは、座乗艦のマストに戦闘旗ではなく、白旗にみたてた白色のテーブルクロスを掲げた。

 ときに午前10時53分、バルチック艦隊の白旗掲揚と機関停止を確認した東郷は、全艦隊に戦闘停止を命令。ここに日本海海戦は幕を閉じたのである(※1)。

 2日間にわたる海戦で、バルチック艦隊の戦闘艦29隻のうち22隻が撃沈、自沈、捕獲された。ウラジオストクに逃げ込んだのは巡洋艦1隻、駆逐艦2隻だけだ。対する連合艦隊の損失は水雷艇3隻が沈没したに過ぎない。

 ほぼ半年前の37年12月、東郷は参内し、明治天皇の前でこう明言していた。

 「敵艦隊に対しては、誓ってこれを撃滅し、宸襟(しんきん)を安んじ奉ります」

 東郷はその約束を、見事に果たしたのである。

× × ×

 日本海海戦の勝利に、日本中が沸き立ったのは言うまでもない。海戦の様子は裕仁親王(のちの昭和天皇)の耳にも届き、小さな胸を高ぶらせた。

 海戦の翌日、明治38年5月29日、《午後、(裕仁親王は)二十七・二十八両日に対馬沖において行われたロシア艦隊との海戦の捷報(しょうほう)を東宮職御用掛桑野鋭よりお聞きになる。夜、海戦の戦況につき、侍医補原田貞夫よりお聞きになる》(昭和天皇実録1巻83頁)

 日露戦争中、静岡県沼津の故川村純義別邸や神奈川県箱根の富士屋ホテル別館に滞在することの多かった裕仁親王は、弟の雍仁(やすひと)親王(のちの秩父宮)と、海に山にのびのびと過ごしていたが、お付きの者たちが語り聞かせてくれる戦争の話に、子供らしい関心を抱いていたようだ。

 同年10月12日に靖国神社へ行った際、同社には英霊が祀られていると教えられ、「この中に広瀬中佐もいるの?」と尋ねたと、昭和天皇実録に記されている(※2)。

 避暑先の栃木県日光で近在の子供たちが戦争ごっこをして遊んでいるのを、雍仁親王と一緒に見つめていたこともあった。遊びの輪に、加わりたかったのだろうか--。

× × ×

 ロシア皇帝ニコライ2世がアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋(あっせん)を受け入れ、日露講和のポーツマス条約が調印されたのは、日本海海戦からほぼ3カ月後の9月5日である。

 近代戦で初めて、有色人種の国家が白色人種の大国を独力で打ち破ったのだ。日本の勝利は、欧米列強の植民地だったアジア諸地域の人々に、独立への勇気を与えたといえるだろう。

 インドネシアの高校歴史教科書(2000年版)には、こう書かれている。

 「日本のロシアに対する勝利は、アジア民族に政治的自覚をもたらすとともに、アジア諸民族を西洋帝国主義に抵抗すべく立ち上がらせ、各地で独立を取り戻すための民族運動が起きた。(中略)太陽の国が、いまだ闇の中にいたアジアに明るい光を与えたのである」(※3)

 一方、欧米列強では、フランスやドイツなどで日本を脅威とする黄禍論が高まった。ことに日露の仲介役を務めたアメリカは、日本に肩入れすることで満州利権に食い込む思惑もあったが、あてが外れたため次第に日本をライバル視する傾向が強くなる。講和から36年後、セオドア・ルーズベルトと同じファミリーネームをもつ米大統領が日本に強烈なしっぺ返しをするのだから、歴史は皮肉なものだ。

 日本国内でも、勝利の余韻は長く続かなかった。講和条約でロシアから賠償金を取れなかったことに国民は猛反発し、暴徒が内務大臣官邸などを襲う日比谷焼打事件が発生。巨額の債務の穴埋めと国民の批判をかわすため、政府は以後、対外強硬路線に傾くようになる。

 日露戦争の勝利により、日本は列強の一員として歩み出した。しかしそれは、新たな国際摩擦への一歩でもあった。

 裕仁親王、4歳の夏である--。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1)ネボガトフは当初、降服を示すXGEの国際信号旗を掲げたが、連合艦隊の砲撃が止まなかったため、白色のテーブルクロスを掲揚した。一方、連合艦隊側ではXGE旗の意味が分からず、白旗掲揚をみてようやく降服の意図を悟った。だが、敵艦隊が陣形を崩さずに航走を続けているため、戦闘の意思ありとみて砲撃を止めなかった。このとき先任参謀の秋山真之が東郷に対し、「長官、武士の情けです」といって砲撃中止を進言したといわれる。しかし国際法に詳しい東郷は、敵艦隊の機関停止を確認してはじめて「撃ち方やめ」を命じた。

(※2)広瀬中佐とは、連合艦隊による旅順閉塞作戦(明治37年2~5月)で戦死した広瀬武夫。明治維新以降、初の「軍神」として神格化された。

(※3)日本の勝利をアジアの諸民族は歓迎したが、その後、日本が対外強硬路線に傾いたため、急速にアジアの支持を失うことになった。インドネシアの教科書にも「日本の支配地においては日本化が広く行われたが、これはアジアにおいて西洋帝国主義の地位に取って代わろうするためであった」などと、批判的に書かれている。インド初代首相のネルーは、日本の勝利にいかに勇気づけられたかを著書に記す一方、「(日露戦争の結果)少数の侵略的帝国主義諸国のグループに、もう一国をつけ加えたというにすぎなかった」と、日本への失望を痛烈に書き残している。

【参考・引用文献】

○軍令部編『明治三十七八年海戦史』

○同『極秘明治三十七八年海戦史』

○田中宏巳著『東郷平八郎』(筑摩書房)

○小笠原長生編著『聖将東郷全伝2巻』(国書刊行会)

○宮内庁編『昭和天皇実録』1巻

○大江志乃夫著『世界史としての日露戦争』(立風書房)

○石井和子監訳『世界の教科書シリーズ20 インドネシアの歴史-インドネシア高校歴史教科書』(明石書店)

○平間洋一編『日露戦争を世界はどう報じたか』(芙蓉書房)