【昭和天皇の87年】世界が驚嘆した東郷ターン 「決戦は三十分で片が付いた」 - 産経ニュース

【昭和天皇の87年】世界が驚嘆した東郷ターン 「決戦は三十分で片が付いた」

画=井田智康
日本海海戦(5)
 決戦の日、明治38年5月27日、薄く靄(もや)のかかった日本海を、連合艦隊の戦艦4隻、装甲巡洋艦8隻が、波頭を切り裂いて航走する。
 風は強く波は高い。だが、旗艦三笠の艦橋に立つ東郷平八郎は微動だにせず、双眼鏡を手に前方を見つめている。
 その目が、遠く海上に浮かび上がる数十隻の艦影をとらえた。最大にして最後の敵、バルチック艦隊だ。見る間に大きくなる艦影は、戦艦8隻、巡洋艦12隻、駆逐艦9隻…。
 午後1時55分、三笠の前部マストに、決戦を示す4色のZ旗が翻った。
 「皇国ノ興廃 此ノ一戦ニアリ 各員一層奮励努力セヨ」(※1)
 このとき、敵との距離はおよそ1万2000メートル。それがどんどん近づいてくる。このまますれ違いざまに戦うか(反航戦)、それとも並行して戦うか(同航戦)、決定権をもつ東郷は双眼鏡を目に押し当てたまま、いまだ一言も発しない。
 彼我の距離が8000メートルとなった午後2時5分、東郷はさっと右手を上げた。その手をゆっくり、左に向けて下ろしていく。
 傍らにいた参謀長、加藤友三郎の大声が響いた。
 「艦長! 取り舵一杯!」
 旗艦三笠が左に急転回する。後を追って2番艦の敷島、3番艦の富士、4番艦の朝日なども順次転回する。のちに東郷ターンと呼ばれ、世界中の海軍関係者を驚嘆させた、敵前大回頭だ。
× × ×
 軍艦は、速度を落として転回しているときが最も狙われやすい。敵の射程距離内で1艦ずつ順次転回するなど、当時の海戦の常識では考えられないことだった。
 連合艦隊もそれまでは、決戦のための艦隊運動は一斉回頭による丁字戦法-と内々に決めていた。しかし、前年8月の黄海海戦で旅順艦隊を危うく取り逃がしそうになった反省から、東郷と参謀らは作戦を改良。一斉ではなく順次回頭し、危険を冒してでも敵に肉薄する戦法に切り替えたのだ。
 一方、三笠が急転回するのをみた敵の司令長官ロジェストウエンスキーは、好機到来と全艦隊に戦闘開始を命令。距離7000メートルで旗艦スウォーロフが第1弾を発し、後続艦も次々に砲撃したが、効果的な命中弾はなく、東郷による大胆な艦隊運動をとめることはできなかった。
 この敵前大回頭、すなわち東郷ターンが決まったことで、勝敗はほぼ決したと言えよう。
 距離6000メートルとなった午後2時10分、ついに東郷は砲撃を命じる。まず三笠の12インチ砲が放たれ、転回を終えた連合艦隊の後続艦も砲撃を開始。敵の進路を圧迫しつつ先頭の旗艦スウォーロフと戦艦オスラービャを猛射した。
 スウォーロフ乗組の海軍中佐セメヨノフが書く。
 「我等の頭上に特別の雷鳴が轟き渡つた。爆発する鉄の鋭い響きが、大きな重い物でも投げる様に聞えた。風切は折られ、燃えた破片は落ちて、見透かすことが出来ない黒い煙が我々の身体を包んだ」「敵は我等を打ち破るため、此の破損した甲鉄艦に優勢な砲火を浴びせた。恐ろしい火と鉄との旋風のため、艦上の装具はどしどし倒れる…」
 バルチック艦隊も果敢に砲撃し、旗艦三笠は多くの命中弾を受けたが、巧みな艦隊運動で先頭を圧し続ける連合艦隊の優位は変わらない。
 間もなく敵の各艦に大火災が起こり、濛々たる爆煙が海と空を覆った。互いに飛び交う砲弾はやがて一方向にのみ流れ、風を切り、空を裂いた。
 セメヨノフの言葉を借りれば、それはもはや「戦闘ではない。射撃教練…」だった。
× × ×
 連合艦隊の先任参謀、秋山真之はのちに「決戦は、三十分間で片が付いた」と語っている。事実、三笠の第1弾からほぼ30分後の午後2時40分、猛火と爆煙に包まれた敵の艦影が視認できなくなり、連合艦隊が一次砲撃を中止したほどだ。
 ことに先頭のスウォーロフとオスラービャの損傷は激しく、午後2時50分、まずスウォーロフが舵機を破壊されて艦列から落伍し、午後3時7分、オスラービャが沈没した。
 旗艦を失った後続の各艦は散り散りとなり、懸命に逃走を図るも連合艦隊に追い詰められ、午後7時20分までに戦艦アレクサンドルⅢ世、同ボロジノ、仮装巡洋艦ウラル、工作船カムチャッカが海の藻くずと消えた。
 日没後は連合艦隊の駆逐艦隊と水雷艇隊の出番だ。
 俊足の小型艦が敵の大型艦を追い回し、夜陰に乗じて肉薄する様子を、参戦した第41号水雷艇長の水野広徳が戦記文学の名著「此(この)一戦」に書く。
 「(味方の負傷者を)顧みる暇(いとま)も、助くる暇(ひま)もない。唯(ただ)驀進(ばくしん)! 唯猛進! やがて敵艦上に於ける喧噪叱咤を聞き得るに至れば、距離は已に二百米突(メートル)以内である。敵の艦腹を狙つて発射管の電鍵(でんやく)一(ひと)たび圧すれば、シューッ。一条の白線を海面に描きつヽ波を潜つて進み行く魚形水雷、一個! 二個!! 三個!!!」「幾(いくば)くもなく轟然海も覆(くつがえ)るばかりの爆音と共に、船体がピリヽと振動すれば、俄(にわか)に起る萬歳の声。命中ッ!」
 敵艦が狂乱して海面を猛射する中、駆逐艦隊と水雷艇隊の攻撃は、前方から後方から、一隊去ってはまた一隊と繰り返され、戦艦2隻、巡洋艦4隻を大破撃沈した。このうち戦艦を沈めた第4駆逐隊の司令は、のちの首相、鈴木貫太郎である。
 明けて28日、ウラジオストクに向けて遁走するバルチック艦隊は、戦艦2隻、装甲海防艦2隻、巡洋艦1隻に減っていた--。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)
(※1)アルファベットの最後の文字であるZ旗は、もうあとがないという意味で、必勝を期して掲げられることがあった。1805年のトラファルガー海戦で英国艦隊提督のネルソンが、「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」との信号旗とともに、Z旗を旗艦のマストに掲揚したのが初例。これにより士気を高め、敵艦隊を撃破したネルソンに習い、東郷もZ旗に「皇国ノ興廃 此ノ一戦ニアリ 各員一層奮励努力セヨ」の意味をつけて掲げた。以後、日本海軍にとってZ旗は格別な意味を持つようになり、先の大戦でも主要な海戦で掲揚されている。もっとも平時における国際信号旗としてのZ旗の意味は「引き船を求む」、漁船の場合は「投網中である」で、必勝とは無関係。
【参考・引用文献】
○軍令部編『明治三十七八年海戦史』
○同『極秘明治三十七八年海戦史』
○田中宏巳著『東郷平八郎』(筑摩書房)
○北沢法隆著「再考東郷ターン」(日本海事史学会『海事史研究』第58号所収)
○ウラジミル・セメヨノフ著『日本海大海戦 殉国記』(明治出版)
○秋山真之講演録「日本海々戦の回想」(実業之日本社『軍談』所収)
○水野広徳著『此一戦』(博文館)