いざ決戦へ、錨を上げた連合艦隊 「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」

昭和天皇の87年
画=井田智康

日本海海戦(4)

 明治37年8月11日、前日の黄海海戦で敗れたロシア旅順艦隊18隻のうち9隻が旅順港に戻ってきた。主力の戦艦はいずれも艦影が変貌するほど破壊され、その惨状に、旅順のロシア軍関係者は言葉を失った。

 残留組だった海軍将校レンガートが、艦隊が帰港したときの衝撃を書き残している。

 「諸艦の惨状は実に目も当てられない。自分はいまだかつてかくも大損傷を受けた軍艦を見たことがない…」

 敗残の艦隊は出撃不能と判断され、その備砲は取り外されて陸戦に転用された。また、旅順港に戻れなかった9隻のうち7隻は中立国の港で武装解除され、2隻は逃走中に自爆した。

 ここに旅順艦隊は、消滅したのである。

 だが、東郷平八郎がそれを知るのは4カ月後、二◯三高地の陥落により港内の敵艦が掃討され、唯一港外に逃れた戦艦セバストーポリも座礁、航行不能となったのを、東郷自ら視認した12月19日だった。

× × ×

 その翌日、すなわち12月20日、東郷は旅順に上陸する。敵艦隊の全滅を確認した以上、一刻も早く内地に戻り、傷ついた各艦の修理を急がねばならないが、その前に東郷には、どうしても会っておきたい人物がいた。

 第3軍司令官、乃木希典(まれすけ)である。

 先任参謀の秋山真之を伴い、第3軍司令部を訪ねた東郷を、乃木とその幕僚が出迎える。寡黙な2人は、微笑をたたえて固く握手を交わした。このとき、互いに何を感じたか-。

 のちに東郷の秘書的存在となる名文家、小笠原長生の筆を借りよう。

 「思へば半年の久しき、強敵と戦ひ、寒暑と戦ひ、風雪と戦ひ、此れ(東郷)は艦艇十余隻の亡失と、許多(あまた)の勇士が忠死とを偲びて髭髯(しぜん)にはかに雪を増せば、彼れ(乃木)は二愛子を君国に捧げ、肉弾的決戦に幾万の壮夫が、健気の戦没を憶(おも)ふて頬肉ひとしほ寒し、両将互に相助け相励まして、今や漸く其の目的を達せんとし、此処(ここ)に握手の機会に到達し得たる其の感慨果たして如何(いかん)ぞや。あまりに壮にして烈なるの光景に打たれ、幕僚いずれも頭を低(た)れて黙然たりしと云ふ」

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 旅順艦隊を打ち破った東郷の次なる敵は、ロシアから回航されてくるバルチック艦隊(ロジェストヴェンスキー司令長官)だ。同艦隊のウラジオストク入港を許せば日本のシーレーンが脅かされる。逆に全滅すれば日露戦争の勝利に直結する。

 10月15日、バルト海の軍港リバウを出港した同艦隊は翌38年4月14日、ベトナムのカムラン湾に到着し、ロシア第3太平洋艦隊と合流。1カ月にわたり同湾に錨泊(びょうはく)した後、戦艦8隻を含む計50隻の大艦隊となって極東へ船首を向けた。

 この情報を日本側が入手したのは5月17日だ。連合艦隊が内地に帰還して5カ月余り、旗艦三笠をはじめ全艦とも整備を終え、万全の迎撃態勢である。東郷の司令部内は、時は来たりと勇み立った。

 ところがここから、司令部内に不安と疑心が立ちこめる。カムラン湾を出港したバルチック艦隊が、“行方不明”になってしまったからだ。

 ウラジオストクへ向かう敵艦隊の予想航路は3つ、日本海を突っ切る対馬海峡か、太平洋側に回る津軽海峡か、さらに遠回りする宗谷海峡かである。常識的に考えれば最短コースの対馬海峡だろう。東郷もそう考え、朝鮮半島南端の鎮海湾に連合艦隊を集結、対馬海峡への警戒を強めていた。敵艦隊の速度から判断して、5月20~21日には海峡付近に姿を見せるはずだ。

 しかし、21日が過ぎても警戒網に引っかからなかった。敵艦隊はどこにいて、どの海峡を通ろうとしているのか-。

 最北の宗谷海峡は霧が深く、暗礁もあるので除外していい。一方、津軽海峡の可能性は残されている。もしも津軽海峡を通れば、対馬海峡で待つ連合艦隊は迎撃に間に合わない。先任参謀の秋山真之はじめ幕僚の多くは、次第に津軽海峡説に傾いていった。

 このとき東郷のみは、対馬海峡と信じて毫も動揺しなかった-と、一部に伝えられている。だが、軍令部編集の海戦史などを読み解くと、さすがの東郷にも迷いがあったようだ。

 25日、ついに東郷は軍令部に打電する。

 「明日正午迄(まで)当方面(対馬海峡)ニ敵影ヲ見サレハ当隊(連合艦隊)ハ明夕刻ヨリ北海方面ニ移動ス」

 これより前、東郷は隷下の各司令官に「連合艦隊ハ会敵ノ目的ヲ以テ今ヨリ北海方面ニ移動セントス」との密封命令を発していた(※1)。それを26日正午に開封する、というのである。

 この命令が実行されたなら、歴史は変わっていたかもしれない。しかし、運はまだ東郷にあった。

 期限の26日早朝、軍令部から待ちに待った情報が届く。敵の運送船など8隻が前日に上海港外の呉淞(ウースン)に入港したというのだ。これで、バルチック艦隊がまだ東シナ海にいる可能性が高まった。当初の予想通り、間もなく対馬海峡を通過するに違いない。

 五島列島沖合を警戒中の仮装巡洋艦信濃丸が、「敵艦隊ラシキ煤煙見ユ」との一報を打電したのは27日午前4時45分である。

 いよいよ決戦だ。

 旗艦三笠は錨(いかり)を上げた。

 「敵艦見ユトノ警報ニ接シ 連合艦隊ハ直ニ出動 之ヲ撃滅セントス 本日天気晴朗ナレドモ波高シ」(※2)

(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1)密封命令とは、事前に渡していた封書を、指定時刻に開封して実行する命令

(※2)連合艦隊が大本営に発した明治38年5月27日早朝の電報。先任参謀の秋山真之が起草したとされる

【参考・引用文献】

○レンガート著『旅順・松山の歌』(新時代社)

○真鍋重忠著『日露旅順海戦史』(吉川弘文館)

○小笠原長生編著『東郷元帥詳伝』(春陽堂)

○小笠原長生編著『聖将東郷全伝』2巻(国書刊行会)

○水野広徳著「軍議 日本海々戦秘録」(雑誌『中央公論』昭和2年6月号所収)

○軍令部編『極秘明治三十七八年海戦史』第2部1巻