戦艦2隻が相次ぎ沈没 連合艦隊は底なしの悪夢に取りつかれた

昭和天皇の87年
画=井田智康

日本海海戦(2)

 「東郷は運のいい男でございますから」

 東郷平八郎を連合艦隊司令長官に抜擢(ばってき)する際、ときの海相、山本権兵衛は明治天皇に、こう説明したと伝えられる(※1)。とはいえ山本は、運だけで東郷に白羽の矢を立てたのではあるまい。

 明治36年12月、日露戦争を目前にして編成された連合艦隊は、かつてない規模の巨大組織だ。戦艦、巡洋艦、駆逐艦などを組み合わせた第1、第2艦隊の計55隻を擁し、その司令長官には的確果断な決断力、実行力、統率力が求められる。

 山本は、高陞(こうしょう)号事件などでみせた東郷の決断力を高く買っていたのだろう。

 ところが開戦当初の東郷は、不運と失策の連続だった。

× × ×

 連合艦隊の当面の敵は、旅順港に主力を置くロシア太平洋艦隊(旅順艦隊)である。このため参謀の有馬良橘は開戦前、まだ旅順の防備が整わないうちに港口に商船を並べて沈め、旅順艦隊を出られなくする閉塞(へいそく)作戦を立案。決死隊を編成して決行命令を待ったが、東郷はなかなか許可しなかった。

 有馬は軍令部に送った意見書で、「東郷閣下モ未タ一言ノ(閉塞作戦の)可否ニ就(つい)テ御明言無之(これなく)…」と不満を漏らしている。

 東郷は、艦隊決戦で雌雄を決したかったのだろう。しかし、この時の判断が連合艦隊を苦境に陥れ、陸の第3軍にも多大な出血を強いることになる。

 果たして37年2月8日の開戦後、旅順艦隊は要塞に守られた港内に引きこもり、連合艦隊の各艦が近くを航行して誘い出そうとしても乗らなかった。

 ここでようやく東郷は閉塞作戦を決断する。だが、すでにロシア側は防備を万全にしていた。

 2月19日夜、東郷は閉塞作戦の決死隊幹部らを旗艦三笠に招いて杯を上げ、「このたびはご苦労である。十分成功を望む」と短くあいさつした。

 いかに寡黙な東郷でも、決死隊への激励としては素っ気ない。この時の東郷は、自らの決断の遅れを悔いていたのではないか。

 2月から5月にかけ、3次にわたり敢行された閉塞作戦は、陸上からの集中砲火に阻まれて目的を果たせなかった。

 第2次作戦の失敗後、東郷は日記に書いた。

 「三月二十七日 曇 少シク雪降 (中略)閉塞隊ハ四隻皆港口ニ侵入。自ラ爆発セリ。戦死者広瀬少佐、杉野上等兵曹、小池兵曹外九名」(※2)

 悲劇は、これで終わらなかった。

× × ×

 開戦から3カ月たった5月中旬、東郷率いる連合艦隊は、底なし沼のような悪運に取りつかれる。

 同月12日、水雷艇48号がロシアの機雷に触れて沈没、14日には通報艦宮古も機雷で沈没した。

 翌15日未明、濃霧の中を航行中の巡洋艦吉野が後続の巡洋艦春日と衝突して海中に消え、艦長以下300人以上が犠牲となった。

 さらに同日、旅順封鎖の任務についていた第1艦隊の戦艦初瀬が機雷に触れて大破。数分後に戦艦八島も触雷し、両艦ともやがて沈没、約500人の犠牲者を出す。その後も17日までに駆逐艦など3隻が相次いで衝突、触雷、座礁した。

 わずか6日間で、主力の戦艦2隻を含む8隻を戦わずして失ってしまったのだ。

 連続する凶報に、海軍上層部が激しく狼狽(ろうばい)したのは言うまでもない。アルゼンチン海軍から購入したばかりの装甲巡洋艦2隻を充当し、何とか決戦力を維持したものの、これ以上の喪失は毛ほども許されなかった。

 このとき、悪夢の連鎖を断ち切ったのは、東郷自身である。連合艦隊の参謀らが食事ものどを通らないほど消沈する中、全責任を負うべき東郷のみは、いささかも動揺の色をみせなかった。

 沈没した初瀬、八島の両艦長が旗艦三笠に東郷を訪れ、号泣して謝罪したとき、東郷は静かに言った。

「御苦労だったね」

 戦前の海軍内部に精通し、大海軍記者と呼ばれた伊藤正徳(※3)が、当時の東郷をこう書く。

 「少しも取り乱さず、というような叙述では、とうていその姿を描くことはできない。あたかも、悲しみの作用をつかさどる神経を手術摘出してしまった人間のように、悲しみを示さなかった。(中略)日本海軍はよい司令官を持ったものである」

 将器は、逆境においてこそ発揮される。このとき東郷が動揺の色をみせれば、それは連合艦隊の全艦船に伝染し、全将兵を萎縮させただろう。その結果、新たな失策を生み出しかねなかった。

× × ×

 ピンチのあとにチャンスありという。

 主力艦の喪失は、図らずも膠着(こうちゃく)した戦局を変えた。ロシアの旅順艦隊が6月23日、日本側の戦力低下に乗じて出港してきたのだ。もっとも司令長官のヴィトゲフトは、連合艦隊の闘志に微塵も揺らぎのないのをみて、一戦も交えず旅順港に逃げ戻った。この弱腰に極東ロシア軍の総指揮官アレクセーエフは憤慨し、皇帝ニコライ2世の勅命を取り付けて再度の出港を厳命する。

 8月10日、今度こそ旅順艦隊は、不退転の決意で旅順港を出港した。

 待ち構える連合艦隊にとって、このチャンスを逃すわけにはいかない。東郷の運が本物かどうか、いよいよ試されるときが来たのだ--。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1)連合艦隊の編成直前、当時55歳の東郷平八郎は舞鶴鎮守府司令長官の職にあり、すでに海上勤務の第一線からは外れていた。連合艦隊司令長官には、常備艦隊司令長官の日高壮之丞が任じられると思われていたが、海相の山本は日高を更迭し、東郷にかえた。異例の人事であり、海軍内には当初、東郷の起用を疑問視する声も上がったという。一方、その頃の日高は健康を害しており、更迭は妥当だったとする見方もある

(※2)旅順港閉塞作戦で戦死した広瀬武夫中佐(死後昇進)はのちに軍神とたたえられ、杉野孫七兵曹長(死後特進)とともに文部省唱歌にもなった

(※3)伊藤正徳は戦前、時事新報の海軍記者として活躍し、戦後は共同通信理事長、日本新聞協会理事長、時事新報社長、産経新聞主幹などを歴任した

【参考・引用文献】

○軍令部編『極秘明治三十七八年海戦史』第1部3巻

○伊藤正徳『大海軍を想う』(光人社)

○栗田冨太郎『旅順閉塞回想談』(啓成社)

○小笠原長生『東郷元帥詳伝』(春陽堂)

○外山三郎『日露海戦史の研究〈上〉』(教育出版センター)