「撃沈します」! 日清戦争でみせた東郷平八郎の決断力

昭和天皇の87年
画=井田智康

日本海海戦(1)

 日露戦争後、その活躍から海の東郷、陸の乃木と称された東郷平八郎と乃木希典(まれすけ)は、何かと比較されることが多い(※1)。2人とも謹厳実直を絵に描いたようで、のちに神格化され、国定教科書にも取り上げられた。

 そして2人とも、先の大戦後は学校でほとんど教えられなくなった。

 だが、本連載では2人について詳述しないわけにはいかない。なぜなら2人は裕仁親王の、すなわち昭和天皇の帝王教育に深く関わることになるからだ。

 乃木より1歳年長の東郷は弘化4(1847)年、鹿児島城下加冶屋町(現鹿児島市)で生まれた。同町には西郷隆盛ら維新の元勲の生家が多く、東郷は薩摩閥の一人として重用されることになる。

 明治4(1871)年、西郷の口利きで英国の商船学校に留学し、11年に帰国、海軍中尉に任じられた。以後、比叡乗組(12年)、天城副長(14年)、同艦長(17年)、大和艦長(19年)、浪速(なにわ)艦長(24年)、常備艦隊司令長官(28年)など、海軍勤務の大半を海上で過ごす。

 この間、東郷の名声を高めたのが、ハワイのクーデターと高陞(こうしょう)号事件だ。英国留学中に学んだ国際法が、寡黙な男の“武器”となった。

× × ×

 1893(明治26)年に米国人農場主らがハワイ王朝を転覆させたクーデター事件で、日本政府は邦人保護を理由に東郷率いる浪速など軍艦2隻を派遣した。このとき東郷は、ハワイの監獄を脱獄して同艦に泳ぎ着いた邦人青年を保護、クーデター政府の再三の引き渡し要求を断固拒否する。軍艦内が治外法権であり、邦人保護の正当な権利があることを、熟知していたからだ。

 これに慌てたのは日本の外務省だった。米国との関係悪化を恐れるあまり、海軍を通じて東郷に引き渡しを指示。やがて日本の領事館員が邦人青年を引き取るべく、艦長室を訪れた。

 東郷は言った。

 「犯罪人であれ同じ日本人ではないか。その同胞が救助を求めてきたのを、おめおめ引き渡すのは心外だ。自分は彼を(クーデター政府の)獄吏に引き渡すのではない。(日本人である)あなたたちに引き渡すのである」

 この言葉の中に、東郷の気骨のほどがうかがえよう。

 翌年の夏、日清戦争が勃発。ここでも東郷は開戦早々、国際法をたてに果断な将器をみせる。

× × ×

 明治27年7月25日、朝鮮半島中部西側の豊島沖で、日本海軍連合艦隊の軍艦3隻が清国海軍北洋艦隊の軍艦2隻と遭遇。宣戦布告を待たずに砲撃戦が交わされた結果、北洋艦隊の1隻が白旗を掲げながら逃走、残りの1隻は浅瀬に乗り上げて座礁、自沈した。

 この海戦の最中、清国兵を満載したイギリス商船が近づいてきた。日本としては厄介な事態だ。清国兵を通すわけにはいかないが、うかつに対応すれば世界最強の海軍国、大英帝国を敵に回しかねない。

 この難局の処理にあたったのが、浪速艦長の東郷だった。東郷はまず、商船を停船させて将校を送り、同船が英インドシナ汽船会社代理店所有の「高陞号」であること、清国兵1100人と大砲14門を朝鮮・牙山港へ輸送途中であること、船長のイギリス人は日本側の指示に従う意向を示していること-を確認すると、手旗信号で指示した。

 浪速「錨ヲ揚ケテ本艦ニ続航セヨ」

 だが、高陞号の船長は従わず、重大事態が発生したので面談したいと返信してきた。東郷が再び将校を送って調べさせると、船長以下イギリス人乗員は清国兵に脅迫されており、すこぶる不穏な様子である。

 東郷は船長に、イギリス人は海に飛び込み船から離れるよう指示した。

 浪速「船ヲ去レ」

 高陞号「許サレス 端艇(ボート)ヲ送ラレタシ」

 浪速「送リ難シ 直チニ船ヲ見捨テヨ」

 最初の停船命令からすでに4時間近く。事態はいよいよ切迫してきた。浪速の艦橋に立つ東郷は、高陞号の清国兵が刀剣をぬき、銃を構え、制御できない状態であるのを見て取ると、赤一色のB旗を掲げた。

 「危険ナリ」を示す国際信号旗だ。この旗が軍艦にひるがえれば、その意味はひとつしかない。しばしの猶予を与え、東郷は言った。

 「撃沈します」

 時に7月25日午後1時46分、浪速の砲撃を受けた高陞号は沈没する。その直前に海に飛び込んだ船長らイギリス人4人は救助され、清国兵の多くは射殺、もしくは水死した。

× × ×

 日本の軍艦が英国の商船を撃沈した-との一報は、当初は日本政府を動揺させ、英国世論を激高させた。だが、東郷の措置が国際法に則ったものであることが分かると、英国世論は沈静化し、日本側は手のひら返しで東郷を称賛した。

 それからおよそ10年、日露の開戦が間近となった明治36年12月、東郷は新編成の連合艦隊司令長官に抜擢(ばってき)される。海軍上層部は、東郷の冷静な判断力と豪胆な決断力に、日本の命運を託したのだ。

 ところが東郷は着任早々、重大な判断ミスを犯してしまう--。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1)海の東郷、陸の大山(巌・満州軍総司令官)と称されることもある

【参考・引用文献】

○堀口修「明治三十七年二月~八月 聯合艦隊司令長官東郷平八郎日記聯合艦隊司令長官東郷平八郎日記について」(明治聖徳記念学会編『明治聖徳記念学会紀要 復刊第46号』〈錦正社〉所収)

○小笠原長生『東郷元帥詳伝』(春陽堂)

○アジア歴史資料センター所蔵「高陞号事件報告」

○同「英国商船高陞号撃沈ノ事」