傷だらけの地上決戦 勝利の報に、幼い皇子も万歳した

昭和天皇の87年
画=井田智康

奉天会戦

 裕仁親王が静岡県沼津の故川村純義別邸で過ごしていた明治38年2~3月、満州最古の都、奉天(現中国遼寧省瀋陽)城外の荒野では、日本軍25万人とロシア軍31万人が、およそ20日間にわたる熾烈(しれつ)な戦闘を繰り広げていた。

 日露戦争の地上戦で、最大にして最後の会戦、奉天会戦である。

 旅順要塞を攻略したばかりの第3軍も急ぎ北上し、この決戦に参加した。軍司令官乃木希典に与えられた使命は、第2軍とともにロシア軍の右翼を攻撃、突破し、その背後に回って包囲、殲滅(せんめつ)することにあった。

 大任である。だが、ここでも乃木は不運だった。

 日本の満州軍総司令部は当初、主攻撃を第2軍に任せ、回り込む役目の第3軍には十分な兵力を与えなかったふしがある。事実、第2軍には砲278門が割り当てられたのに対し、第3軍は174門に過ぎない(※1)。

 ところがロシア側の総司令官アレクセイ・クロパトキンは、乃木の第3軍こそ日本軍の主力であると誤認した。難攻不落の旅順要塞を攻め落とした第3軍の戦闘力を、極度に警戒していたためである。クロパトキンは第3軍の進路に続々と戦略予備軍を投入し、最終的にはおよそ10万人のロシア軍精鋭が、3万8000人ほどの第3軍に襲いかかった。

 乃木は、たまったものではなかっただろう。遮二無二(しゃにむに)進撃したものの、死傷者が続出するばかりだ。しかも会戦終盤の3月7日夜、総司令部から「本七日に於ける(第3軍の)運動は頗(すこぶ)る遅緩なるを覚ゆ」との叱責まで受けるのだから、踏んだり蹴ったりである。

 多くの武勇伝を残した日露戦争で、乃木ほど損な役回りはあるまい。実はこの頃、第3軍以外の各軍は敵の堅陣に阻まれ、一歩も前進できないでいた。第3軍のみがボロボロになって前へ、前へと進んでいたのに、総司令部は8日にも「第三軍の猛烈なる攻撃前進を希望」する旨の督戦電報を送りつけている。

 一方、前進をやめない第3軍に仰天したのは、敵将クロパトキンだった。このまま包囲されれば全滅しかねないと考えたクロパトキンは、相当な余力を残していたにもかかわらず、ロシア全軍に北方への転進(事実上の退却)を命令。9日から総退却に移った。乃木と第3軍の孤軍奮闘が、図らずも世界最強陸軍国の知将をして、その判断を狂わせたといっていい。

 10日、日本軍は奉天に入城する。だが、城門に旭日旗を掲げる栄誉に浴したのは、第3軍ではなく第2軍だった。満身創痍(そうい)の第3軍はこのとき、さらに北方に達していて、退却するロシア軍を眼前にしながら、砲弾切れのため何もできずにいた。

× × ×

 それでも、勝利は勝利である。「奉天占領」の一報に、日本中が歓喜熱狂したのは言うまでもない。全国各地で祝勝会が開かれ、都市部はもちろん農村部でも万歳の声が響き渡った。

 その中には、幼い裕仁親王の声もあった。

 東宮侍従長の「木戸孝正日記」によれば、3月26日、沼津で祝勝会が開かれ、市民らが故川村純義別邸の裏にある海岸に集合、整列して万歳を唱えた。この時、裕仁親王と雍仁(やすひと)親王も裏門前に出て、両手を挙げて一緒に万歳したという。

 「一同敬礼を為したる時ハ(両親王も)御帽ニ手を挙ケさせられ、御受ケ被遊(あそばされ)、人民一同歓喜」と木戸は日記に書く。国民の熱気が、両親王の暮らしぶりにも影響を与えていた様子がうかがえよう。

 同年4月14日、4歳になる直前の裕仁親王は雍仁親王とともに沼津を離れて上京し、東宮御所と庭続きの皇孫仮御殿に移った。この時も裕仁親王は、新橋駅で出迎えた宮中関係者や居合わせた外国公使らに挙手の敬礼をし、周囲を感心させたと木戸の日記に書かれている。

 当時の東京は、戦況などを伝える号外が連日のように出されていた。この時期に保母として雇われた足立孝(のちの鈴木貫太郎首相夫人)が言う。

 「御殿は外が近いもんですから、『号外、号外』チリン、チリン、チリンと歩く(のが聞こえる)んです。すると皇孫さんが『鈴を出せ』とおっしゃるんです。皮のヒモに鈴の付いたのを差し上げると、紙を持って、『号外、号外』と御殿中ぐるぐる回っておられる。だれか来ると『号外』って言ってお渡しになる」

× × ×

 地上戦のクライマックスである奉天会戦に勝利しても、日露戦争が終わったわけではない。ロシア側にはまだ、強力な切り札が残されていた。

 間もなく日本近海に姿をあらわし、日本のシーレーンを打ち破ると恐れられた世界最強レベルの大艦隊、バルチック艦隊だ。

 これを迎え撃つ大任を託されたのは、乃木と同様、のちに裕仁親王の帝王教育に深く関わることになる、海軍大将東郷平八郎であった--。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1)奉天会戦当初における日本軍の兵力分配は、(1)新編成の鴨緑江軍(歩兵31個大隊・砲78門)と連携してロシア軍の左翼を牽制(けんせい)攻撃する第1軍が歩兵52個大隊・砲174門 (2)ロシア軍の右翼を主攻する第2軍が歩兵45個大隊・砲278門 (3)第2軍の主攻を支援すべくロシア軍の右翼に回り込む第3軍が歩兵41個大隊・砲174門 (4)敵の反撃や正面攻撃などに備える第4軍が歩兵43個大隊・砲252門 (5)第2軍の後方で待機する総予備隊が歩兵28個大隊・砲36門-という布陣だった。だが、第3軍以外の各軍が一歩も前進できない苦境に陥ったため、会戦後半の3月6日、満州軍総司令部は方針転換し、第3軍に総予備隊3個旅団を加え、主攻を託すことにした。もっとも予備隊投入の時期が遅すぎたため、ロシア軍を包囲、殲滅することはできなかった

【参考・引用文献】

○長南政義編『日露戦争第三軍関係史料集』(国書刊行会)

○旧参謀本部編『日本の戦史 日露戦争〈下〉』(徳間書店)

○大江志乃夫『世界史としての日露戦争』(立風書房)

○宮内庁書陵部編『書陵部紀要』第54号所収の「木戸孝正日記」

○永積寅彦『昭和天皇と私』(神道文化会)

○鈴木(旧姓足立)孝「天皇・運命の誕生」(文藝春秋編『昭和天皇の時代』収録)