【昭和天皇の87年】ドイツ人医師がみた皇太子一家の「本当の幸福な家庭生活」 - 産経ニュース

【昭和天皇の87年】ドイツ人医師がみた皇太子一家の「本当の幸福な家庭生活」

画=井田智康
家族の愛情
 乃木希典(まれすけ)率いる第3軍の奮闘により、難攻不落のロシア旅順要塞が陥落した明治38年の新春、日本国内は、もうひとつの慶事に沸いた。
 同年1月3日《午後七時二十八分、東宮御所御産所において、皇太子妃は第三男子を御分娩になる》(昭和天皇実録1巻72頁)
 この吉報を新聞は、宮内省の正式発表を待たずに速報した。翌4日の都新聞が書く。
 「本年は何たる目出度(めでた)き年柄ぞや、旅順の敵降伏の報ありて、人々祝賀の情に堪へざる折も折、昨日皇太子妃殿下御分娩皇孫御降誕ありとの報、雲の上より漏れ承りぬ」
 明治天皇は第3皇子に宣仁(のぶひと)の名と、光宮(てるのみや)の称号をおくった。のちの高松宮である。
 当時、裕仁親王(のちの昭和天皇)は雍仁(やすひと)親王(のちの秩父宮)とともに、避寒のため静岡県沼津の故川村純義別邸に長期滞在していた。兄弟3人がそろって会うのは同年3月22日、宣仁親王が節子皇太子妃とともに沼津を訪れたときである。もうすぐ4歳になる裕仁親王は、まだ生後80日足らずの弟に興味津々だったようだ。
 この日、東宮侍従長の木戸孝正は日記に「迪宮(みちのみや=裕仁親王)及淳宮(あつのみや=雍仁親王)両殿下ハ至テ御機嫌克(よ)く、何より有難く存せり」と書いた。
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 裕仁親王が弟思いだったことを示すエピソードは少なくない。
 前年8月に死去するまで養育を任されていた枢密顧問官(元海軍卿)川村純義の次女、花子によれば、裕仁親王は「どんな些細(ささい)なものでも、御弟君の淳宮様へお分かちになることをお忘れになりませんでした」という。
 雍仁親王付きの看護婦だった田中信子も、のちにこう述懐している。
 「淳宮様の玩具など弄ばせ給ふを見ては『危ない、危ない』と仰せられ、共々に水晶の兎や蝋石(ろうせき)の牛、さては汽車などぐるぐる回させられ、至つてお仲睦(むつま)じくお遊びで御座いました」
 宣仁親王はしばらく沼津御用邸で育てられた。その間、近くの故川村純義別邸で過ごしていた裕仁、雍仁両親王が、たびたび乳児の弟を見に行った様子が昭和天皇実録に記されている。
 4月6日《沼津御用邸に御参邸になり、宣仁親王と御対顔になる》(1巻78頁)
 4月11日《御庭にて御運動中のところ、宣仁親王海岸よりお成りにつき、御対顔になる》(1巻79頁)
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 もっとも裕仁、雍仁両親王にとって、何より嬉しかったのは母、節子皇太子妃とのふれ合いだろう。東京で宣仁親王を出産した節子皇太子妃に会うのは、4カ月半ぶりである。久しぶりの母のぬくもりを、裕仁親王はどう感じただろうか。
 3月31日《午後、(裕仁親王は)御庭の土堤上より往来を隔てて、皇太子妃と御対顔になる》(1巻78頁)
 4月7日《午後、(裕仁親王は)雍仁親王と共に海岸へお出ましになり、同所を御散歩中の皇太子妃とお過ごしになる》(同)
 なお、聡明かつ気丈な性格で知られる節子皇太子妃(のちの貞明皇后)は、わが子を愛しつつも天皇家の立場を重んじ、過度に接することを自制していた(※1)。そのことがのちに、母子関係に微妙な軋轢(あつれき)をうむことになるのだが、それは後述する。
 一方、父の嘉仁皇太子は前年12月から沼津御用邸に滞在しており、裕仁親王や雍仁親王とふれ合う機会が多かった。昭和天皇実録には、両親王が近くの山でツクシやタンポポを摘み、皇太子にあげる様子なども書かれている。
 自身は病弱だった皇太子は、子供たちが元気に育っていることが、よほど嬉しかったのだろう。連日のように会おうとするため、東宮侍従長の木戸孝正から「あまり繁々(しげしげ)と会うのはよろしくない」と諫言されたほどだ。この年の1月には、沼津御用邸に参邸した連合艦隊司令長官の東郷平八郎らに両親王の写真を与え、《以後、皇太子はしばしば賜謁者等に両親王の御写真を賜う》(1巻73頁)
 皇太子一家が沼津にそろった3月31日、皇太子は東宮医務顧問のドイツ人医師ベルツに、3親王を診てほしいと頼んだ。
 ベルツは日記に書く。
 「皇子たちに対する東宮の、父親としての満悦ぶりには胸をうたれる。まず最初、先日拝見したばかりの、一番末の皇子を見舞う。誕生後八十日にしては立派な体格、見事な発育で、お母さん似だ。上の二人の息子は現在、ほぼ四歳と二歳半になるが、まことに可愛らしい。行儀のよい、優しくて快活な坊やである。長男の皇子は穏やかな音声と静かな挙止とで、非常に可愛らしく優しいところがある。次男の皇子はいっそうお母さん似で、すこぶる活発で元気だ。(中略)今では東宮一家は、日本の歴史の上で皇太子としては未曾有のことだが、西洋の意味でいう本当の幸福な家庭生活、すなわち親子一緒の生活を営んでおられる」--
(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)
(※1)節子皇太子妃の子供たちへの接し方について、東宮職御用掛だった松平信子は「宮中の慣習や御身分上の拘束があるため、皇子様方に対して一般の母親の様に遊ばしたくても遊ばすことが出来ないのを飽き足りなく思召されたことも多かつたと存ぜられます」と回想している。また、節子皇太子妃自身、わが子に自由にふれ合えないもどかしさを、「人のおやの つとめなしえぬ 我身には 子らはくゝめる 人うらやまし」と詠んでいる。
【参考・引用文献】
○宮内庁編『昭和天皇実録』1巻
○宮内庁書陵部編『書陵部紀要』第54号所収の「木戸孝正日記」
○田中光顕監修『聖上御盛徳録』(長野新聞)所収の柳原花子回想録
○『聖上御盛徳録』所収の田中信子謹話
○宮内庁所蔵『貞明皇后実録編纂資料・関係者談話聴取』所収の「松平信子談話」
○宮内庁編『貞明皇后御集〈上〉』
○トク・ベルツ編『ベルツの日記〈下〉』(岩波書店)