【昭和天皇の87年】遂にロシア軍司令官が降服 世界が称賛した乃木希典の武士道精神 - 産経ニュース

【昭和天皇の87年】遂にロシア軍司令官が降服 世界が称賛した乃木希典の武士道精神

画=井田智康
旅順攻囲戦(6)
 ロシア旅順要塞司令官アナトーリイ・ステッセルが、第3軍司令官乃木希典に降伏を申し入れたのは、二◯三高地の陥落からほぼ1カ月後、明治38(1905)年1月1日である。
 二◯三高地陥落以降、乃木は、敵の堡塁(ほうるい)近くまで塹壕(ざんごう)を掘り進めてから突撃する正攻法を一歩進め、地下に坑道を掘って堡塁の下まで達し、大量の火薬で爆砕する戦術を採用。それまで第3軍を苦しめていた要塞正面の永久堡塁を次々に攻略し、1日午後には旅順高峰の望台を落した。
 すでに戦意を喪失していたステッセルは、もはやこれまでと思ったのだろう。
 要塞陥落の吉報に国民は歓喜熱狂した。1月3日の東京朝日新聞によれば、「(東京)市中各区は直(ただち)に祝捷(しゅくしょう)の準備に着手し、辻々の大国旗は殊に花やかに翻(ひるが)へり、各新聞社前は常よりも十倍大の紙片に旅順陥落、敵将降伏など筆太に記して号外発行の混雑恰(あたか)も戦地の如し。(日本橋界隈などの)家々は紅白又は浅黄(あさぎ)と白の幔幕を張り、燦然(さんぜん)花の林に入るが如し」だったという。
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 だが、陸軍上層部の一部には、冷ややかな空気もあったようだ。
 37年7月26日の進撃開始から5カ月余り、乃木の旅順攻略に延べ約13万人もの兵力が割かれ、死傷者は6万人近くに達した。参謀次長の長岡外史は回顧録の中で、乃木の作戦を「同一の方法で同一の堅塁を無理押しに攻め立てた」と批判し、「第三軍参謀部の能力、如何(いかに)ひいき目に視るも感服は出来ぬ」と突き放している。
 余談だが、第3軍の作戦指導に批判的で、のちの歴史研究者らに影響を与えた戦前の陸大テキスト「機密日露戦史」(※1)は、長岡の回顧録など乃木と対立した軍関係者の証言に依拠するところが多い。戦後に乃木を凡将とする評価が広まり、現在も根強いのは、このテキストが一因だろう。
 一方、海外の識者らは、近代的な永久要塞を攻略した乃木の力量を高く評価した。
 ロシア革命の指導者レーニンも、乃木の戦術に多くを学んだ一人だ。乃木が第1回総攻撃後に戦術転換したことを絶賛し、革命後の政策転換も乃木に見習えと檄を飛ばした。
 「もし戦術に誤りがあるとすれば、その誤りを取りのぞかなければならない。(中略)われわれの知っているように、(乃木が第1回総攻撃後にとった)新しい作戦は、予想以上にはるかに長い期間を要しはしたが、完全な勝利におわったのである」(1921年の第7回モスクワ県党会議におけるレーニン演説)
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 もう一つ、乃木の名声を不動にしたものがある。
 要塞陥落の5日後、乃木は敵将ステッセルと旅順北西で会見した。戦前の教科書に登場し、唱歌にまでなった「水師営の会見」である。
 これに先立ち、参謀総長の山県有朋は乃木に打電し、「陛下(明治天皇)には将官ステッセルが祖国の為め尽くせし苦節を嘉(よ)みし玉(たま)ひ、武士の名譽を保たしむべきことを望ませらる」と伝えた。
 乃木は、この聖旨を忠実に履行する。勝者である軍司令官としてではなく一個人として会見にのぞみ、ステッセルと随員に勲章の佩用(はいよう)と帯刀を許した。
 通訳を務めた第3軍参謀の津野田是重によれば、「双方隔意なき態度を以て雑談」し、こんなやり取りを交したという。
 ステッセル「閣下は当方面の戦場において、最愛の二子を喪われたとのことですが、まことに御同情に堪えません」
 乃木「私は二子が武門の家に生まれ、軍人としてともに死所をえたことをよろこびます。彼らも満足して瞑目(めいもく)していることでしょう」
 ステッセル「閣下は人生の最大幸福を犠牲にして、かえって満足しておられる。私などの遠く及ぶところではありません」
 乃木「ところで貴軍の戦死者の墓が散在しているようですが、できることなら1カ所に集め、墓標を立てて氏名などを記しておきましょうか」
 ステッセル「閣下は戦死者のことまで情けをかけてくれるのですか、お礼のことばもありません」
 会見の様子は、武士道のあるべき姿として、戦前の日本人の心に深く染み込んだ。
 それから35年余り。昭和15年6月22日、第二次大戦でフランスを破ったナチス・ドイツは、第一次大戦でドイツがフランスに降伏した因縁の地、コンビエーニュの森にフランス代表を呼び、降伏文書に調印させた。
 それを知った昭和天皇は、こう言って嘆息した。
 《何(ど)ウシテアンナ仇討メイタコトヲスルカ、勝ツトアヽ云フ気持ニナルノカ、ソレトモ国民カアヽセネハ承知セヌノカ、アヽ云フヤリ方ノ為メニ結局戦争ハ絶エヌノデハナイカ》(昭和天皇実録27巻124頁)
(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)
(※1)機密日露戦史は、陸軍中将の谷寿夫(ひさお)が陸軍大学の教官時代、兵学講義の教科書として著作したテキスト。公刊戦史にない史料や、日露戦争従軍者らの証言も含まれ、戦史研究における資料的価値は高い。戦前は一般に公開されなかったが、戦後にその存在が明らかになると、歴史研究者や小説家らが参考にするようになった。昭和43~47年に産経新聞夕刊で連載された司馬遼太郎の「坂の上の雲」も、機密日露戦史を参考にしている。ただ、著者の谷は第3軍司令部の一次史料(参謀日記など)をほとんど利用せず、多くを第3軍に批判的な軍関係者の回顧談などに依拠していた。このため幾つか事実誤認があり、日露戦争で第4軍参謀長を務めた上原勇作(のち元帥陸軍大将)も「客観性に欠ける」などと批判していた。
 なお、谷は陸軍士官学校15期卒で、二○三高地で戦死した乃木の次男、保典と同期である。陸大教官後は国際連盟陸海空軍問題常設委員や近衛歩兵第2旅団長などを歴任。昭和10年に第6師団長となり、南京攻略戦などに参戦した。しかし戦後は「南京事件」の責任者の一人としてGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に逮捕され、中国の南京軍事法廷に移送。その後の戦犯裁判で谷は、「第6師団は軍機厳正であり、事件の証拠はすべて偽造である」などと主張したものの死刑判決が下され、22年4月26日、銃殺刑に処された。“勝者の裁き”による不当判決だが、谷は少しも取り乱さず、従容たる最期だったという。
【参考・引用文献】
○長南政義編『日露戦争第三軍関係史料集』(国書刊行会)
○『日露戦争第三軍関係史料集』所収の「大庭二郎中佐日記」
○参謀本部編『明治卅七八年日露戦史』(偕行社)
○和田政雄編『乃木希典日記』(金園社)
○谷寿夫『機密日露戦史』(原書房)
○長岡外史文書研究会編『長岡外史関係文書・回顧録篇』(長岡外史顕彰会)○明治38年1月3日の東京朝日新聞
○津野田是重『斜陽と鉄血』(偕行社)
○宮内庁編『昭和天皇実録』27巻