流血無残な第1回総攻撃 戦場は日本兵の死体で埋め尽くされた

昭和天皇の87年
画=井田智康

旅順攻囲戦(3)

 明治37(1904)年8月19日早朝、遼東半島(現中国遼寧省)の先端にある旅順の山々を、濛々(もうもう)たる黒煙が覆った。

 乃木希典(まれすけ)率いる第3軍の攻城砲兵部隊が一斉砲撃を開始。ロシア旅順要塞への第1回総攻撃が、遂に始まったのだ。

 乃木は要塞の東北正面を主要攻撃目標とし、第1師団が水師営南方の堡塁(ほうるい)群などに、第9師団が竜眼北方堡塁と盤竜山東堡塁に、第11師団が東鶏冠山北堡塁などに突撃した。

 だが、コンクリートで固めた近代要塞の防御力は、当時の日本人の想像を絶していた。

 小銃を手に突撃した日本兵は、たちまちロシア軍の機関銃になぎ倒され、砲弾に吹き飛ばされた。それでも日本兵は同胞の死体を踏み越えて堡塁に取りすがったが、その防壁はあまりに厚く、無慈悲だった。

 この戦闘で負傷した第22連隊旗手の桜井忠温が、当時の情景を戦記文学の名著「肉弾」に書く。

 「嗚呼(ああ)、何等の惨(さん)ぞ! 其の死骸は二重三重と重なり、四重五重と積み、或る者は手を敵の砲台に掛けて倒れ、或る者は既に乗り越えて、敵の砲架を握れるままに死したるあり、そして苦しき呻(うめ)き声の深き地の底より起こるが如くに聞ゆるは、畳み重なった下に在る負傷者が発したのである。勇壮なる此の突撃縦隊が、味方の死屍(しし)を乗り越え踏み越え、近く敵塁に肉薄して、魚鱗(ぎょりん)掛かりに突き入ると、忽(たちま)ち敵の精巧なる機関砲によって、攻め寄る者毎(ごと)に一々撃殺された為、死屍は数層のなだれを打って、敵塁直下に斯(か)くは悲惨なる状況を現出したのである」

 戦闘は6日間にわたり、各部隊の砲弾も肉弾もみるみる尽きていった。

 24日午後4時、ついに乃木は攻撃中止の軍命令を下す。一連の攻撃で得たのは盤竜山の東西両堡塁2つのみ。砲声の止んだ要塞周辺は、日本兵の死体で埋め尽くされた。

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 第1回総攻撃の死傷者は日本側が1万5860人、ロシア側が約1500人。それまでの日本軍の戦闘史上、最悪の損害である。驚愕(きょうがく)した陸軍中央は、失敗の原因は全て乃木第3軍の無能にあると決めつけた。

 だが、そもそも旅順要塞を軽視していたのは陸軍中央だ。第3軍編成時にほとんど敵情を把握できず、第3軍が砲1門あたり800発の砲弾を要求したのに400発しか与えなかった。陸軍中央の乃木無能論は責任転嫁にほかならない。

 とはいえ、空前の戦死傷者を出しながら攻略に失敗した乃木の責任も大きい。

 要塞陥落を今や遅しと待ち望んでいた国内世論は深く失望し、のちには乃木の留守宅に投石する者や、門前で「切腹するがよい」と叫ぶ者まで現れた。

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 一方、第3軍そのものは乃木の統率力のもと、固く結束していたようだ。

 9月6日、乃木は隷下の各師団長、各団体長を集めて会議を開いた。第3軍参謀の井上幾太郎はこの時、各師団長から多少の不平も出るだろうと懸念していたが、乃木を詰(なじ)るような発言は一切なかったという。

 井上は日記に書く。

 「各師団長とも乃木大将の人格に服せるにや、更(さら)に不平の色あるものを見ず、皆喜んで軍司令官の意図を向へ、進んで其(その)責任を果たさんとする色見へたり」

 乃木の将器のほどがうかがえよう。

 なお、乃木の戦術について、前線の兵士の命を代償に無理攻めを繰り返した-とする批判が現在も少なくない。だが、第3軍の参謀日記など1次資料を見る限り、これは誤解である。

 第1回総攻撃で乃木がとった戦術は、事前に敵陣地を徹底的に砲撃、破壊してから歩兵が突撃する「強襲法」だった。

 この戦術は当時の陸戦の常識で、乃木は実際、一斉突撃の開始前に計約3万7千発もの砲弾を撃ち込んだ。井上の日記には、「(日本側の砲撃は)誠に壮烈の光景にして、恰(あたか)も(ロシア側の)堡塁、砲台は尽(ことごと)く粉砕せらるるかと感せしめたり」と記されている。

 井上ら乃木の幕僚は、「これなら強襲で要塞は取れる」と思った。

 ところが、「尽く粉砕せらるるか」に見えたのは周囲の外観だけで、堡塁本体には大した打撃を与えられなかった。陸軍中央が第3軍に与えた火砲の多くが、旧式の青銅砲だったからだ。

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 第1回総攻撃の失敗後、乃木は強襲法を捨て、敵の堡塁近くまで塹壕(ざんごう)を掘り進めてから攻撃する「正攻法」に切り替える。これに対し各師団の参謀長、工兵大隊長の多くは当初、正攻法では時間がかかるうえ、敵前で塹壕を掘れば被害が続出するとして否定的だったが、乃木は決然として戦術転換を指示した。

 乃木は無理攻めを繰り返したのではない。失敗に学んでいたのである。

 その乃木に9月上旬、強力な援軍が現れた。参謀本部から28センチ榴弾(りゅうだん)砲が送られてきたのだ。この巨大砲が、のちに日本の陸戦史を塗り替えることになる--。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

【参考・引用文献】

○参謀本部編『明治卅七八年日露戦史』

○桜井忠温『肉弾』(国書刊行会)

○長南政義編『日露戦争第三軍関係史料集』

○同史料集所収の「大庭二郎中佐日記」

○同史料集所収の井上幾太郎「日露戦役従軍日記」

○同史料集所収の井上幾太郎講演録「日露戦役経歴談」

○佐々木英昭『乃木希典 予は諸君の子弟を殺したり』(ミネルヴァ書房)