【昭和天皇の87年】緒戦は圧勝したものの… 乃木を追い詰める国内の楽観ムード - 産経ニュース

【昭和天皇の87年】緒戦は圧勝したものの… 乃木を追い詰める国内の楽観ムード

画=井田智康
旅順攻囲戦(2)
 日露開戦から4カ月後の明治37年6月6日、旅順攻略を任された乃木希典(まれすけ)の第3軍司令部は、遼東半島(現中国遼寧省)の張家屯に上陸した。
 乃木がまずしたことは、「直ニ負傷者ヲ見舞フ」ことだった。将兵をいたわる乃木の姿は、編成間もない第3軍の結束を強めたに違いない。
 翌日、乃木は金州に行き、激戦の末にロシア軍を駆逐した南山の戦場を視察した。5月25~26日にかけて行われた戦闘で日本軍は4300人が死傷。乃木の長男勝典もここで戦死している。周囲にはまだ、両軍兵士の死臭が漂っていた。
 有名な「山川草木(さんせんそうもく)」を詩作したのは、この時である。
 山川草木転(うたた)荒涼
 十里風腥(なまぐさし)新戦場
 征馬不前(すすまず)人不語(かたらず)
 金州城外立斜陽(しゃようにたつ)
 乃木は6月9日に隷下の第1師団司令部を、10日に第11師団司令部を訪れ、ロシア軍と対峙(たいじ)していたそれぞれの陣地を巡視した。
 このとき、歩兵第15連隊小隊長として戦地にいる、次男保典の従卒が乃木の宿舎を訪ねてきたと、日記に書かれている。
 「菓子・煙草・ウヰスキ小瓶ヲ(保典の従卒に)為持(もたせて)帰ヘス。(中略)保典書状アリ」
 乃木は、保典からの書状を、何度も読み返したのではないか。人前では息子たちの話をしなかった乃木だが、親としての愛情は十二分に深かった。
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 乃木が兵を動かしたのは上陸20日後の6月26日。手始めに大連湾を一望できる歪頭(わいとう)山を占領、続いて同山西側の剣山を攻め落とした。対するロシア軍は7月3~5日、剣山を奪回しようと反撃に転じたが、第3軍はこれを撃退、大連港の安全を確保した。
 3~5日の戦闘における死傷者は日本軍205人、ロシア軍636人(※1)。まずまずの滑り出しといえよう。
 7月下旬、第3軍の戦力は倍増する。大連港から第9師団、後備歩兵第1旅団、同第4旅団が次々に上陸し、戦闘序列に入った。
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 ところでこの頃、乃木が挑む旅順攻略をめぐり、日本国内には能天気なほど楽観的な空気がみなぎっていた。例えば7月29日の都新聞はこう伝える。
 「旅順の陥落は世界列国の一斉に視線を注ぐ所にして、我国民は二人以上相会すれば直ちに旅順の陥落は何の時なるべきかの語を以てし『旅順は何時でせう』の語の宛(あた)かも『お早う』若くは『今日は』の挨拶に継(つい)で発するの常套(じょうとう)語となれり」
 開戦以来、日本陸軍は連戦連勝を重ねていた。5万人超の大兵力を擁する乃木の第3軍が苦戦を強いられるなど、想像できなかったのだろう。
 東宮医務顧問のドイツ人医師ベルツも日記に書いている。
 「日本人が旅順陥落を必至と見る自信たるや、まったく恐ろしいほどである。東京の全市街では軒なみに、あるいは道路越しに、支柱を建てまわしたり、針金を張りめぐらして、(祝賀用の)ちょうちんや旗をつるすようにしてある。(中略)旅順はなんと言っても絶対確実に陥落するわけではないことなど、誰の念頭にもないらしい」
 そもそも参謀本部が旅順要塞をみくびっていた。
 約4万2千人のロシア軍守備隊は、旅順の山々にコンクリートで固めた永久堡塁(ほうるい)や多数の臨時堡塁、鉄条網をめぐらし、難攻不落の近代要塞を構築していた。ところが参謀本部は敵情を全く把握できず、第3軍編成前、「防備は支那時代の旧式野塁に多少の散兵壕を増築せるのみ。永久築城なしと思う」といった程度の認識であった。
 こうした銃後の楽観が、乃木の作戦を狂わせることにもなる。
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 第3軍は7月26日、旅順要塞の外側にある前進陣地を攻め、30日までに営城子、鞍子嶺(あんしれい)、三四八高地、老座山、大鉄匠山、王家甸子(でんし)、鳳凰(ほうおう)山などを占領、旅順要塞を包囲した。しかし予想外に損害が多く、一連の戦闘の死傷者はロシア側2062人に対し日本側4094人(※2)。第3軍参謀の井上幾太郎がのちに語ったところでは、この戦闘で「ロシア軍が防御に於いては極めて頑強に抵抗するものだということをよく味わった」という。
 乃木は本来、じっくり攻めることも考えていたようだ。前線部隊の参謀に句を送り、要塞攻略の心構えを「いそぐなよ 旅順の敵はよもにげじ よくくうてねて おきてうつべし」と詠んでいる。
 だが、要塞何するものぞという日本国内の楽観と、バルチック艦隊の回航を恐れる海軍の焦燥とが、乃木にじっくり攻めることを許さなかった。
 8月19日、乃木は旅順要塞への総攻撃を強行し、空前の大損害を出してしまう-。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)
(※1、2)死傷者数は参謀本部が編集した『明治卅七八年日露戦史』より。なお、ロシア軍の死傷者には失踪者を含む
【参考・引用文献】
○和田政雄編『乃木希典日記』(金園社)
○参謀本部編『明治卅七八年日露戦史』
○トク・ベルツ編『ベルツの日記〈下〉』(岩波書店)
○谷寿夫著『機密日露戦史』(原書房)
○井上幾太郎講演録「日露戦役経歴談」(長南政義編『日露戦争第三軍関係史料集』所収)より
○学習院輔仁会編『乃木院長記念録』