ロシア旅順要塞を攻略せよ 悲劇の名将、乃木希典いざ出陣

昭和天皇の87年
画=井田智康

旅順攻囲戦(1)

 日露戦争が始まったのは裕仁親王2歳の冬、明治37(1904)年2月である。

 国家の命運のかかる開戦を前に、双方の君主がみせた姿勢は対照的だった。明治天皇は平和を願い、こう詠んだ。

 よもの海 みなはらからと 思ふ世に なと波風の たちさわくらむ

 一方、ロシア皇帝ニコライ二世は日本人を「黄色いサル」と侮り、満州から朝鮮半島へと、南下政策を強引に推し進めた。

 日本は、立ち上がらざるを得なかったのだ。

 当時、世界最強の陸軍国といわれたロシアの国力は日本のおよそ10倍。誰もが“極東の小国”の敗戦を予想したが、戦端が開かれるや日本軍将兵の奮闘ぶりに世界中が驚嘆する。典型的な激戦の一つが、旅順攻囲戦だろう。

 開戦早々、黒木為●(=木へんに貞)(ためもと)率いる第1軍が朝鮮半島からロシア軍を駆逐し、奥保鞏(やすたか)指揮の第2軍が遼東半島(現中国遼寧省)に上陸して橋頭堡(きょうとうほ)を築くなど、緒戦で連戦連勝を飾った日本陸軍だが、頭の痛い問題があった。

 遼東半島の先端に構築された、難攻不落のロシア旅順要塞である。

 ここに敵の大軍が居座る以上、満州を北上する陸軍の補給線が常に脅かされる。加えて要塞が守る旅順港にはロシア太平洋艦隊の主力(旅順艦隊)が引きこもり、海軍から、早く要塞を攻略してほしいと切実な要請があった。

 そこで大本営は第3軍を編成した。指揮をとるのは、のちに裕仁親王の帝王教育に深くかかわることになる、陸軍中将乃木希典(まれすけ)である。

 乃木、このとき54歳。最前線に立つ司令官就任を喜び、こう詠んだ。

 此儘(このまま)に 朽(くち)もはつべき埋木(うもれぎ)の 花咲く春に 逢(あ)ふぞ芽出たき

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 乃木は戦後、人格は抜群でも戦術指揮官としては凡将、もしくは愚将と酷評されることが多いが、近年の研究では、若い頃から軍事面で非凡な才能をみせていたと再評価する見方が少なくない。

 長府藩(長州藩の支藩)の中級藩士の家に生まれ、明治4年に22歳の若さで陸軍少佐に任官、福岡県の士族が起こした秋月の乱を鎮圧するなど武功をあげた。10年の西南戦争では歩兵第14連隊を率いて戦闘中、連隊旗を喪失して敵に奪われるという不名誉事件を起こすも、常に政府軍の先陣となって奮戦し、勝利に貢献している。

 その後、連隊旗喪失などを悔やんでか、料亭に入り浸るなど一時放蕩(ほうとう)な生活を送る。しかし22~23年のドイツ留学で軍人のあるべき姿を悟り、以後は謹厳実直を貫いた。

 25年に歩兵第1旅団長となった乃木は、27~28年の日清戦争に出征。遼東半島に上陸して早々に金州城を占領し、旅順攻略戦にも参加した。第3軍司令官への起用は、このときの経験を買われてのことだろう(※1)。

× × ×

 開戦3カ月後に編制された第3軍は、第1、第11師団を主力とし、のちに第9師団なども加わる総兵力5万人超の大軍である。

 乃木は37年5月25日に参内して明治天皇に拝謁、感謝とともに奮戦を誓った。このとき嘉仁皇太子から酒を賜わり、司令部で部下に分配したと日記に書いている。27日に東京を発った乃木は意気揚々で、「飲や酒 食へやまんしろ 心地よく」の句を詠んだ。

 だが、この喜びは長くは続かなかった。

 広島県宇品の軍港に向かう途中の30日、乃木より先に出征していた長男、歩兵第1連隊小隊長の勝典が戦死したとの一報を受けたのだ。

 乃木は日記に書いた。

 「勝典ノ事電報アリ、他言セズ」

 乃木の次男保典も満州の戦地にいる。乃木は妻の静子に、こう言い渡していた。

 「親子3人の柩(ひつぎ)がそろうまで、葬式をしてはならぬ」

 事実、乃木は死ぬつもりだった。しかし、旅順で乃木を待っていたのは、死よりも辛い惨劇だった--。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1)乃木は日露戦争前に休職しており、開戦直前に動員されたものの、最初に与えられたポストは将兵の教育や補充、補給を担う留守近衛師団の師団長だった

○エレーヌ・カレール=ダンコース『甦るニコライ二世 中断されたロシア近代化への道』(藤原書店)

○和田政雄編『乃木希典日記』(金園社)より

○鹿島ト伝「乃木名将論」(中央乃木会機関紙『洗心』所収)

○明治37年6月2日の読売新聞