家族愛でも国民の模範に… 養育担当者の早すぎた死

昭和天皇の87年
画=井田智康

運命の皇子(4)

 明治35年、裕仁親王(のちの昭和天皇)に続いて弟の雍仁(やすひと)親王(のちの秩父宮)の養育も託されることになった枢密顧問官の川村純義は、こんな所信を述べている。

 「人君たるものは御親子の愛情、御兄弟の友情、皆臣民の模範たらざるべからず。されば御父たる皇太子殿下、御母たる妃殿下が常に皇孫の御養育を監視し給ひ、御養育の任に当るものも常に両殿下の御側近くにて養育しまつるを勉めば、御親子の愛情愈々(いよいよ)濃かなるべく…」(※1)

 この言葉通り、川村は裕仁、雍仁両親王と、父母の嘉仁皇太子、節子皇太子妃とがふれ合う機会を積極的につくった。川村が静岡県沼津にある別邸を増築し、冬季は別邸で両親王を養育したのも、この時期の皇太子夫妻がしばしば沼津御用邸に滞在していたからだ。

 ふれ合いの様子は昭和天皇実録に詳しい。

 明治36年2月10日《(裕仁親王は)午後、御散策の帰途(川村別邸に)お立ち寄りの皇太子に御拝顔になる》(1巻42頁)

 同月11日《(裕仁親王は)午後、雍仁親王と共に沼津御用邸に御参邸になり、皇太子・同妃に御拝顔になる。皇太子・同妃の沼津御滞在中には、以後もしばしば御用邸に御参邸になる》(同)

 皇太子も皇太子妃も、両親王がかわいくて仕方がなかったのだろう。

 東宮医務顧問だったドイツ人医師ベルツの日記には、この頃の皇太子が両親王について「父親らしい自慢」をしたと書かれている。

 「全く自慢されるのも無理はない。二人とも立派な男の子だ。兄の迪宮(みちのみや)は二歳半、いくぶんお父さん似で、色もお父さんのように浅黒く、丈夫な坊やである。弟の淳宮(あつのみや)は一歳半、色白でほおが赤く、すこぶる美しい顔立ちの、とても可愛らしい子で、しかも歳の割には非常に利発だ」

× × ×

 一方、公私の別に厳しい明治天皇が川村の家を訪れることはなかった。すると川村はある時、両親王を連れて沼津駅へ行った。明治天皇のお召し列車が通るからである。

 明治35年11月19日《午前、(裕仁親王は)雍仁親王と共に沼津停車場にお成りになり、熊本県下における陸軍特別大演習の御統監より還幸(かんこう)途次の天皇に車中において御拝顔になる》(同37頁)

 この時の様子を、両親王の保母となる足立孝が戦後に回想している。

 「明治大帝が汽車で沼津をお通り遊ばすので、川村さんが皇孫さまについて停車場へおいでになったそうです。すると明治大帝はもともとお言葉の少ない方ですので、ただ、にこにこされただけでお言葉も何もないものですから、川村さんがとても心配されたんです。ところが、大帝はあとで女官に『きょうはうれしかったよ。皇孫を川村が駅まで連れて来てくれて、元気なところに会ってうれしかった』って仰せになりましたそうです」

 明治天皇もまた、両親王がかわいくて仕方なかったのだ。

× × ×

 未来の天皇としての素養を磨くとともに、家族愛でも国民の模範となるような人間性を育もうとした川村の親王養育。しかし、長くは続かなかった。川村が腎臓炎を患い、日に日に悪化したのである。

 36年の晩秋、川村の長男、鉄太郎が東宮大夫のもとを訪れ、「(父の病は)不治のものと覚悟いたしました」と伝えている。精魂かけて親王養育に打ち込んだことが、寿命を縮めたのだろう。

 翌37年8月12日、裕仁親王3歳の夏に、川村は東京の自宅で死去した。享年六十八。明治天皇は川村家に祭資金を下賜する沙汰書を出し、長年にわたる海軍での功績をたたえるとともに「迪宮淳宮ヲ保育シテ善ク其誠ヲ竭(つく)セリ」と賞した。

 川村の死後、親王養育の重責を任されたのは、東宮侍従長の木戸孝正だ。安政4(1857)年生まれの当時46歳。維新の元勲、木戸孝允(桂小五郎)の甥(おい)で、木戸家の家督を相続し、明治22年から宮内省に出仕していた。なお、裕仁親王より2年早く生まれた長男の幸一はのちに昭和天皇の側近中の側近となり、終戦の聖断に向けて奔走することになる。

 11月9日、両親王は川村邸を引き払い、木戸が常駐する東宮御所の敷地内に移った。親王の養育は臣下があたるという慣例上、父母の皇太子・同妃と一つ屋根の下で暮らすわけではないが、両親王が起居することになった新造の皇孫仮御殿は東宮御所と庭続きで、皇太子・同妃と接する機会が格段に多くなる。

 だが、そのことを大きく報じた新聞記事はない。当時の紙面が、国家最大の非常事態で埋め尽くされていたからだ。

 日露戦争である。

 この時、満州では、のちに裕仁親王の帝王教育に深くかかわる第3軍司令官乃木希典の指揮の下、旅順要塞への総攻撃が行われようとしていた--。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1)明治34年5月5日付の国民新聞から引用。このほか川村は同紙に、「日本も既に世界の列に入りて国際社会の一員たる以上は子女の教養も世界的ならざるべからず。特に後日、此の一国に君臨し給ふべき皇孫の御教養に関しては深く此点を心掛けざるべからず。皇孫の成長し給へる頃に至りて彼我皇室間及び国際の交際愈々(いよいよ)密接すべきことを予測すれば、御幼時より英仏其他重要なる外国語の御修得御練習を特に祈望せざるべからず」と抱負を語っている

【参考・引用文献】

○宮内庁編『昭和天皇実録』1巻

○エルウィン・ベルツ『ベルツの日記〈上〉』(岩波書店)

○鈴木(旧姓足立)孝「天皇・運命の誕生」(文藝春秋編『昭和天皇の時代』所収)

○国立歴史民俗博物館所蔵『木戸家文書』

○明治37年11月8日付の「木戸孝正日記」(宮内庁書陵部編『書陵部紀要 第53号』所収)