1歳3カ月でハイハイ 英国婦人も感嘆した「誇り高き血」

昭和天皇の87年
画=井田智康

運命の皇子(3)

一、心身の健康を第一とすること

二、天性を曲げぬこと

三、ものに恐れず、人を尊ぶ性格を養うこと

四、難事に耐える習慣をつけること

五、わがまま気ままのくせをつけないこと

 国民待望の皇子、裕仁親王(のちの昭和天皇)の養育を託された枢密顧問官の川村純義が、心に誓った5つの基本方針である。

 この方針のもと、裕仁親王は順調に成長した。以下、昭和天皇実録が書く。

 明治34年10月5日《川村伯爵邸にて箸初の御祝が行われる》(1巻20頁)

 同年10月24日《この日より、海水と真水を一対三の割合で混ぜた湯による御入浴を試みられる》(同22頁)

 35年1月1日《この日より純牛乳が供進される。以後、供進の御食品の種類は漸次増加し、この年には肉汁羮(あつもの)・粥(かゆ)・鶏卵・蔬菜(そさい)・魚肉・パン・果物・オムレット等が供される》(同25頁)

 同年2月1日《左上内切歯の発生が確認される。以後、順調に乳歯が発生する》(同26頁)

 同年7月31日《本日初めて匐行(ふくこう=ハイハイ)をされ、八月五日には掴(つか)まり立ちをされる。以後、御匐行は次第に速やかになり、掴まり立ちも頻繁にされるようになる。その後、十一月十三日には初めて御自身でお立ちになり、二十四日には、御起立の際に初めて一、二歩歩まれる》(同33頁)

 36年5月《この頃より、片言にて御言葉を発せられる》(同45頁)

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 川村家で裕仁親王の世話にあたったのは、川村を中心に二女の花子(伯爵柳原義光の妻)、花子のいとこ、乳人1人、看護婦2人。ほかに複数の侍女が宮内省や東宮御所から派遣され、川村を助けた。

 花子によれば、「父(川村)は何かにつけて誠心の余り、随分無遠慮に、(親王に対して)ご注意申し上げていました」という。

 そんな川村の様子について、戦前に侍従次長などを務めた甘露寺受長(おさなが)が、興味深いエピソードを書き残している。

 --ある日の夕食時、裕仁親王は、お膳に嫌いなものが出されたのを見て、「これ、いやっ」と箸を投げ出した。すると川村は、「いやなら、お食べにならなくてもよろしい。じじいは、もうご飯をさしあげません」と強く言ってお膳を下げてしまった。しばらくして親王が「食べる、食べる」とすすり泣きを始めると、川村は黙って夕食を前に差し出し、親王は素直に箸をつけた--

 「決して遠慮するに及ばぬ。川村の孫と思ひて万事養(やしな)へ」という嘉仁皇太子の意向を、川村はそのまま実践していたようだ。

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 一方、幼少の裕仁親王はどんな性格だったか。戦前に刊行された養育関係者らの証言録から幾つかひろってみると……

 侍女の一人「殿下(2歳頃の裕仁親王)がお庭で遊んでおられたとき、虫に刺されてしまいました。幼い殿下は顔をしかめて痛がりましたが、侍女のすすめでアンモニアの薬をおててに塗られたところ、かゆみも和らいだようでした。しばらくたったある日、養育係の婦人が虫に刺され、手の甲をかいているのをご覧になった殿下は、まだ片言しかお話しになれないので、よちよちと床の間の方から薬瓶を持ってこられて、ご自身のおててに塗る真似をなさい、薬瓶を婦人にお渡しになられました」

 川村の二女花子「御菓子の内カステイラなどは殊(こと)の外(ほか)御賞美で、折々カステイラを小さく割つて、近侍のものに賜(たまわ)ることがありました。(中略)何事につけても御利発で、御三歳(数え年)の頃から既に軍艦や船等の絵をお書きになり、片言交りのお言葉で御説明になつたのを未だに記憶して居ます」……(※1)

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 身近に接していた養育関係者らが裕仁親王の優しい性格を喜ぶ一方で、外部から訪れた拝謁者らは、将来の天皇としての資質の片鱗を見出していたようだ。

 4~5歳の頃に拝謁したという作家の長與(ながよ)善郎は「御幼少ながら、子供らしい呑気(のんき)さとか、軽佻(けいちょう)な位の朗かさとか、がむしやらさといつたものとは、対蹠(たいしょ)的に縁の遠い、どこかお内気なといふ程の荘重な威が既に具(そな)はつていらつしやる」と書く。

 島津家の家庭教師だった英国人女性、エセル・ハワードも述懐する。

 「(川村家を訪ねて裕仁親王にお辞儀をすると)自発的に自分の小さな手を帽子のところへ持ち上げて大変威厳をもって敬礼をした。たった三歳の幼児に過ぎなかったのに、彼の体の中には誇り高き血が流れているのは誰の目にも明らかであった」

 川村の養育は、順調に実を結んでいたと言えるだろう。

 明治35年6月25日、節子皇太子妃が第2皇子の雍仁(やすひと)親王(のちの秩父宮)を出産すると、その養育も川村に託された。川村自身が、皇孫の養育は兄弟一緒が望ましいと希望したからだ。

 将来の天皇は兄弟愛の面でも国民の模範にならなければと、川村は考えていた--。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1)養育関係者の証言はいずれも戦前に長野新聞が編集した『聖上御盛徳録』から引用。ほかに乳人の増田たまも、「恰度(ちょうど)其の翌年(乳人を終えた翌明治36年)と思ひます。四女みよが生れて一緒に参内しますと、殿下には殊の外御機嫌が麗(うる)はしく、勿体(もったい)なくもお手元にあつた人形やゴム製の馬をみよに下されました」と、裕仁親王の優しい性格を回想している

【参考・引用文献】

○宮内庁編『昭和天皇実録』1巻

○田中光顕監修、長野新聞編『聖上御盛徳録』(長野新聞)

○甘露寺受長『背広の天皇』(東西文明社)

○長與善郎「自分のうけた印象」(創元社発行『天皇の印象』所収)

○エセル・ハワード『明治日本見聞録』(講談社)