【昭和天皇の87年】宿命の母子別離 皇子の養育は薩摩藩士に託された - 産経ニュース

【昭和天皇の87年】宿命の母子別離 皇子の養育は薩摩藩士に託された

画=井田智康
運命の皇子(2)
 明治34年5月28日、生後30日の裕仁親王(のちの昭和天皇)は東宮大夫の中山孝麿に抱かれて皇居賢所を参拝し、明治天皇と初めて対面した。
 その偉大さから大帝と呼ばれた明治天皇が、見るからに健康そうな孫の様子に目を細めたのは疑いない。この日、祝賀に参内した閣僚らが命名式に続く2回目の万歳をしたと、当時逓信相だった原敬が日記に書いている。
 一方、16歳の若さで母となった節子皇太子妃は、この頃なぜか沈みがちだった。
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 話は親王誕生の1カ月余り前にさかのぼる。
 桜のつぼみがふくらみはじめた3月22日、宮中の重臣らが集まり、内密の会議を開いた。生まれてくる皇孫を誰に預けるか、決めるためである。
 天皇家の子女は、臣下の家で養育されるのが長年の慣行だ。明治天皇は公家の中山忠能(ただやす)のもとで、大正天皇も同じ中山家で育てられた。もっとも中山家は明治天皇の生母、中山慶子の実家であり、臣下とはいえ血縁は濃い。
 この先例に従うなら、節子皇太子妃の実家、九条家が適役だろう。九条家は五摂家のひとつで、公家最高位の家格である(※1)。
 だが、明治天皇は軍人などの手で厳しく育てたかったらしく、九条家が候補に上った形跡はない。内親王が誕生した場合は皇太子妃が自ら育てるべきだとする案もあったが、初の出産であり、東宮女官にも子育ての経験者がいないという理由で見送られた。
 未来の天皇の養育を任せるのだ。慎重に人選が進められた結果、宮中の重臣らが白羽の矢を立てたのは、旧薩摩藩士の枢密顧問官、川村純義だった。
 天保7(1836)年生まれの当時65歳。海軍大輔(次官)や海軍卿(大臣)を歴任し、勝海舟とともに帝国海軍の礎を築いた維新の元勲である。妥協を知らない実直な人柄で、明治天皇の信任が篤かった。
 加えて嘉仁皇太子と川村とはしばしば鴨猟などを楽しむ仲だ。嘉仁皇太子はこの人選を喜び、さっそく川村を昼食に招いて言った。
 「決して遠慮するに及ばぬ。川村の孫と思ひて万事育(やしな)へ」
 皇太子直々の依頼である。尊皇の念の篤い川村に、首を横に振る選択肢はない。裕仁親王の命名式が行われた5月5日、川村は国民新聞に、こんな所信を述べている。
 「日本も既に世界の列に入りて国際社会の一員たる以上は子女の教養も世界的ならざるべからず。特に後日、此の一国に君臨し給ふべき皇孫の御教養に関しては深く此点(このてん)を心掛けざるべからず」
 川村の気概がうかがえよう。
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 こうして裕仁親王の養育は川村に託されることになった。ただ、気丈な性格で知られる節子皇太子妃は、複雑な思いを隠しきれなかったようだ。
 節子皇太子妃は出産後、宮内省が雇い入れた乳母に頼らず、自ら母乳で裕仁親王を育てていた。腕の中で、日ごとに体重を増していくわが子に、愛情が高まらないはずがない。
 「(皇太子妃の裕仁親王への)御慈しみも一入(ひとしお)御深くあらせられ候ことなれば、御養育主任のかたへ御委任遊ばさるゝよりも、却つて東宮御所内なる妃殿下の御許にて御育て申し上(たてまつ)る方然るべくやとの御詮議も内々あらせらるゝ」と、5月12日の東京日日新聞が伝えている。
 わが子を手ばなしたくないという思いが周囲に漏れ、この記事につながったのだろう。
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 天空に再会の星が輝く七夕の7月7日、生後70日の裕仁親王は《東宮御所正殿において皇太子・同妃に御拝顔の後、(午前)九時馬車にて御出門、市民奉迎のなか麻布区飯倉狸穴町の枢密顧問官伯爵川村純義邸に御移転になる》(1巻13頁)。
 この別離が、のちの母子関係に少なからぬ軋轢(あつれき)を生むようになるのだが、それは後述する。
 いずれにせよ、誰もが納得しての別離ではなかったようだ。
 皇太子一家の健康診断をしていた東宮医務顧問のドイツ人医師、ベルツが日記に書く。
 「なんと奇妙な話だろう! このような幼い皇子を両親から引離して、他人の手に託するという、不自然で残酷な風習は、もう廃止されるものと期待していた。だめ! お気の毒な東宮妃は、定めし泣きの涙で赤ちゃんを手離されたことだろう」
 むろん、節子皇太子妃の気持ちは、川村も痛いほど分かっていた。
 以後、川村は親王養育に、自らの命をすり減らすほど打ち込んでいく--。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)
(※1)五摂家は鎌倉時代以降、摂政・関白を独占した名門中の名門で、近衛・九条・二条・鷹司(たかつかさ)の5家。その家格は高く、明治になるまで御所の席次は関白-准三宮(太皇太后、皇太后、皇后に准じた待遇)-太政大臣-左大臣-右大臣-親王-の順で、五摂家の権威は親王家以上だった
【参考・引用文献】
○宮内庁編『昭和天皇実録』1巻
○同『貞明皇后実録』1、2巻
○田中光顕監修、長野新聞編『聖上御盛徳録』(長野新聞)
○甘露寺受長『背広の天皇』(東西文明社)
○エルウィン・ベルツ『ベルツの日記〈上〉』(岩波書店)