【昭和天皇の87年】お世継ぎ誕生!「皇室万歳の声は大帝国の山河に反響せり」 - 産経ニュース

【昭和天皇の87年】お世継ぎ誕生!「皇室万歳の声は大帝国の山河に反響せり」

画=井田智康
運命の皇子(1)
 街中の至る所に、日の丸がはためいていた。往来は喜色にあふれ、酒場からは時折「万歳」の声が漏れた。
 その前日、明治34(1901)年4月29日-。
 《(昭和天皇は)東京市赤坂区青山の東宮御所内御産所において皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の第一男子として御誕生になる。この日皇太子妃節子(のちの貞明皇后)には午前より御出産の徴候あり、午後三時四十分侍医相磯慥の拝診をお受けになり、七時頃御産所に入られる。この間、東宮拝診御用橋本綱常・侍医局長岡玄卿始め東宮附侍医局員が相次ぎ参殿する。午後十時十分御降誕、御身長一尺六寸八分(約51センチメートル)、御体重八百匁(もんめ・約3000グラム)。御産所御次ノ間において御産湯を受けられる》(昭和天皇実録1巻1頁・※1)
 吉報は翌日、新聞の号外や役場の公報により、瞬く間に広まった。
 5月2日付の国民新聞は、東京や大阪、名古屋、青森、群馬、熊本など全国各地の人々がこぞって奉祝する様子を報じている。
 「三十日午後零時十分静岡発=親王御降誕の電報に接し市中一般国旗を掲げ祝意を表したり」
 「一日午前七時名古屋発=慶電に接し県民の雀躍一方ならず毎戸国旗を掲げ近日官民祝賀会を開く筈(はず)」
 「一日午前七時三十五分広島発=県民一同国旗を掲げ皇太子、同妃、親王各殿下の萬歳を奉祝したり」……
 幼少から病弱であった嘉仁皇太子が、明治33年5月の結婚後1年を経ずして世継ぎをもうけたことが、国民の歓喜に輪をかけた。
 明治天皇は15人の皇子女をなしたが、男子で成人したのは嘉仁皇太子のほかにいない。この時代もまた、皇統の維持が何より求められていたのだ。
 大任を果たした節子皇太子妃は当時16歳。新聞各紙は「御安産、御母子共御健全にあらせらる」と伝えた。
 5月1日付の都新聞が、万感を込めて書く。
 「辛丑(しんちゅう)の歳(とし)、四月二十九日の夜、此夜(このよ)月明らかに風清く、祥雲(しょううん)天に在りて瑞靄(ずいあい)地に洽(あま)ねし。安らけき夜来の眠(ねむり)覚(さ)めし帝都百万の士民、先づ祝賀の歓声を揚げ、四千万の同胞之に和して皇室萬歳の声は大帝国の山河に反響せり」(※2)
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 祝賀の歓声は、くしくも端午の節句と重なった命名式で、最高潮に達した。
 5月5日《御誕生第七日につき、御命名式が執り行われ、天皇より御名を裕仁(ひろひと)、御称号を迪宮(みちのみや)と賜わり、宮内大臣名をもって官報に告示される。(中略)親王のお印は皇太子妃の御選定により「若竹」と定められる》(1巻8~9頁)
 親王の名前には裕仁、雍仁(やすひと)、穆仁(あつひと)の3つの候補が、称号には迪宮、謙宮の2つの候補があった。その中から選んで決めたのは、明治天皇である。
 古来、親王の名前は儒教の経典に由来することが多く、裕仁の裕は易経に「益徳之裕也」〈益は徳の裕なり〉、詩経に「此令兄弟綽々有裕」〈此(こ)の令(よ)き兄弟、綽々(しゃくしゃく)として裕あり〉などがある。迪宮の迪は書経の「恵迪吉従逆凶」〈迪(みち)に恵(したが)えば吉にして、逆に従えば凶なり〉などから採られた。
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 明治天皇は5日午前10時、親王の名前と称号を自ら大高檀紙(厚手の高級和紙)に記して柳筥(やないばこ=柳の細枝を編んだ箱)に納め、侍従長を勅使として東宮御所の嘉仁皇太子のもとに届けさせた。
 この時、皇居の桜田門内から陸軍砲兵隊による101発の祝砲が轟(とどろ)き、品川沖では満艦飾に彩られた海軍軍艦が21発の皇礼砲を響かせ、東京・日比谷公園では百数十発の花火が打ち上げられた。
 万世を一系につなぐ皇子の名前が決まったのだ。それを喜ぶのに、貴賤も貧富もなかった。
 当時の時事新報によれば第一高等学校(現東京大学教養学部)の学生500人余が夜に提灯行列を行い、皇居前に整列して国歌を斉唱した。東京府下の各監獄もこの日は労務を休み、囚人に特別食が与えられたと、国民新聞に書かれている。
 皇居豊明殿では正午に祝宴が催され、皇族、公爵、各大臣ら親任官が一斉に万歳を唱えた。《これが宮中の御宴において万歳が唱えられた初例という》(1巻9頁)
 親王誕生の翌日と命名式の翌日、皇居の上空に雌雄2羽の白鳩が飛来し、舞い遊んだと伝えられる。これを見た宮中の女官らは平和の吉兆と喜んだ。
 だが、母となった節子皇太子妃はこの頃、複雑な心境でいたようだ。その胸の中ですやすやと眠る最愛の皇子と、別離のさだめが待っていたからである--。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)
(※1)宮内庁が24年の歳月をかけて編集した『昭和天皇実録』(全60巻約1万2000ページ)の本文は、この1文から始まる
(※2)辛丑は干支のひとつで、第38番目の組み合わせ。暦では1901年。祥雲はめでたい雲、瑞靄はめでたい靄(もや)。ともに吉兆を示す
【参考・引用文献】
○宮内庁編『昭和天皇実録』1巻
○明治34年5月1~7日付の国民新聞、都新聞、時事新報
○田中光顕監修、長野新聞編『聖上御盛徳録』(長野新聞)