【昭和天皇の87年】若き皇太子の決意「今はどん底。日本を導いていかなければ…」 - 産経ニュース

【昭和天皇の87年】若き皇太子の決意「今はどん底。日本を導いていかなければ…」

画=筑紫直弘
玉音放送(2)
 「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、もって万世のために太平を開かんと欲す」--
 昭和20年8月15日正午の、列島を涙につつんだ終戦の玉音放送。それを、学習院初等科6年生だった天皇陛下(当時は皇太子)は、栃木県奥日光の疎開先で聴かれた。
 学習院軍事教官兼御用掛の高杉善治によると、陛下は、宿泊先のホテルの一室で、ラジオの前に身動きもせず正座し、膝の上に置いた両手を握りしめ、静かに涙を見せられたという。
 当時11歳。「ご放送が終わった後もしばらくその場にすわり続けられ、万感無量をじーっとこらえながら、小さなお心を痛め、それに打ちかとうと覚悟されていたにちがいない。しっかり結んだお口元には堅いご決意のほどが拝察され、お気の毒に思いながら、また凛々しさに心打たれるものがあった」と、のちに高杉が書き残している。
 この日、皇太子を護衛する近衛儀仗(ぎじよう)隊は厳戒態勢を敷いていた。宇都宮の東部軍第14師団が決起し、戦争継続のため皇太子を奉じて会津若松に立てこもろうとしていると、不穏な情報が流されていたからだ。このため皇太子を長野県などへ避難させる計画が真剣に検討されたほどである。
 しかし陛下は、ラジオから流れる父、昭和天皇の覚悟を、涙とともにしっかり受け止められた。
 陛下は日記に、「新日本の建設」と題して、固い決意を記されている。
 「昭和二十年八月十五日、この日、我が国三千年の歴史上初めての事が起りました。そしてこの日が日本人に永久に忘れられない日となりました。おそれ多くも天皇陛下が玉音で英米支蘇四ケ国の宣言を御受諾になるといふ詔書を御放送なさいました。私はそれを伺つて非常に残念に思ひました。無条件降服といふ国民の恥を、陛下御自身で御引受けになつて御放送になつた事は誠におそれ多い事でありました」
 「今は日本のどん底です。それに敵がどんなことを言つて来るかわかりません。これからは苦しい事つらい事がどの位あるかわかりません。どんなに苦しくなつてもこのどん底からはい上がらなければなりません」
 「今までは、勝ち抜くための勉強、運動をして来ましたが、今度からは皇后陛下の御歌(※1)のやうに、つぎの世を背負つて新日本建設に進まなければなりません。それも皆私の双肩にかゝつてゐるのです。それには先生方、傅育(ふいく)官のいふ事をよく聞いて実行し、どんな苦しさにもたへしのんで行けるだけのねばり強さを養ひ、もつともつとしつかりして明治天皇のやうに皆から仰がれるやうになつて、日本を導いて行かなければならないと思ひます」
× × ×
 同じ日、皇居の地下10メートルにある御文庫附属室では、昭和天皇の臨席の下、枢密院会議が開かれていた。
 《十一時五十分、天皇は会議を中断し、会議場に隣接する御休所に移られる。正午、昨夜録音の大東亜戦争終結に関する詔書のラジオ放送をお聞きになる》(昭和天皇実録34巻51頁)
 不敗であった神国日本の、初の敗戦を伝える自身の声。このとき、昭和天皇は44歳。国民の慟哭が列島を包み込む中で、何を思ったことだろう。
 昭和天皇がいなくても戦争は起きたが、昭和天皇がいなければ戦争は終わらなかった。「自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい」とした終戦の聖断が、日本を救ったのだ。
 この聖断がいかなる覚悟のもとに下されたか。それを知るには、44年前の誕生時にさかのぼって、昭和天皇が歩んだ激動の日々をたどらなければならない--。
(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載 来週からは昭和天皇の幼少期をふり仰ぐ「運命の皇子」編を連載します)
(※1)皇后陛下の御歌 昭和19年12月、「疎開児童のうへを思ひて」として発表された香淳皇后の和歌--
 つきの世を せおふへき身そ たくましく
 たゝしくのひよ さとにうつりて
--天皇陛下の母である香淳皇后は和歌とともに、ビスケット計43万4500袋を下賜し、集団疎開で不自由な生活をしている全国の子供たちに配られた
【参考・引用文献】
○宮内庁編『昭和天皇実録』34巻
○高杉善治『天皇明仁の昭和史』(ワック)
○木下道雄『側近日誌』(文藝春秋)