【昭和天皇の87年】クーデターを防いだ阿南陸相の切腹 決起将校も次々と自決した - 産経ニュース

【昭和天皇の87年】クーデターを防いだ阿南陸相の切腹 決起将校も次々と自決した

画=筑紫直弘
宮城事件(2)
 昭和天皇の玉音放送を収めた録音盤を奪取すべく、決起将校に率いられたクーデター部隊が宮城内に軍靴を響かせていた昭和20年8月15日未明、陸軍首脳で唯一抗戦派に理解を示していた陸相の阿南惟幾(これちか)は、大臣官邸の自室で最後の杯を傾けていた。
 午前1時半、クーデター計画に関わった義弟の竹下正彦中佐が阿南を決起させようと訪れた。だが、すでに自決の準備をしているのをみて説得を諦めた。
 竹下は日誌に書く。
 「(阿南が)平素ニ似ズ飲マルルヲ以テ、アマリ飲ミ過ギテハ、(切腹を)仕損ズルト悪シ、ト云ヒシ所、否、飲メバ酒ガ廻リ血ノ巡リモヨク、出血十分ニテ致死確実ナリト、予ハ剣道五段ニテ腕ハ確カト笑ハレタリ」
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 最後まで徹底抗戦を訴えた阿南だが、実は中堅将校らの暴発を抑えるため敢えて先頭に立ったのであり、暗黙のうち終戦工作に協力していたとする説もある。
 首相の鈴木貫太郎も戦後、「若(も)し、彼にして偏狭な武弁であり、抗戦のみを主張する人ならば、簡単に席を蹴つて辞表を出せば、余の内閣などは忽(たちま)ち瓦解(がかい)して了(しま)うべきものであつた」と述懐する。
 しかし阿南は内閣瓦解を防ぎ、その職務を全うした。自決の前夜、阿南は鈴木のもとを訪れ、こう語っている。
 「自分は陸軍の意志を代表して随分強硬な意見を述べ、総理をお助けするつもりが反(かえ)つて種々意見の対立を招き、閣僚として甚だ至らなかったことを、深く陳謝致します」
 阿南が侍従武官を務めていた昭和4年から8年まで、鈴木も侍従長として宮中にいた。お互い深く信頼し合っていた仲だ。「総理をお助けするつもり」の言葉に、偽りはなかっただろう。
 午前3時、阿南はシャツを着替えた。侍従武官時代、昭和天皇から拝領したシャツである。勲章で飾られた軍服は床の間に置き、その両袖に抱くようにして、戦死した次男惟晟(これあきら)の写真を載せた。
 午前5時、短刀にて割腹。竹下が介錯(かいしゃく)しようとしたのを断り、午前7時すぎ絶命した。
 享年五十八。自室の机上には「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」の遺書が残された。
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 自刃の一報は、すぐにクーデター部隊の将校らに伝わった。それは、命と引き替えの諫止(かんし)と聞こえたに違いない。近衛歩兵第2連隊第1大隊長の北畠暢男(のぶお)はのちに、「この時点で私は、天の時は過ぎたのだ、と覚悟するに至りました」と述懐している。
 阿南の自刃により、宮城事件は急速に収束へと向かう。
 東部軍管区司令官の田中静壱(しずいち)が自ら鎮圧に乗り出したのは、夜が白々と明けた頃だった。午前5時過ぎ、近衛歩兵第1連隊に車で乗りつけた田中は、クーデター計画に関与した石原貞吉少佐を憲兵隊に拘束させると、決起将校らの直属の上官だった近衛歩兵第2連隊長の芳賀豊次郎に対し、「当面は俺自身が近衛師団の指揮をとる。貴官は直ちに現態勢を解除して原態勢に復帰させ、守衛任務を遂行せよ。お詫び言上のため(皇居の)御文庫へ伺候したいので案内せよ」と命じた。
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 一方、首謀者の畑中健二少佐は最後の手段として、クーデター部隊の一部が占拠した東京・内幸町の放送会館に乗り込み、日本放送協会(NHK)報道部の柳沢恭雄副部長に拳銃を突きつけた。
 「決起の趣旨を訴えたい。放送させよ。さもなければ撃つ」
 だが、柳沢は無言のまま動かなかった。
 ここに畑中も決起の終末を知る。
 午前7時、畑中は近衛師団の宮城内守衛隊司令官室に行き、自ら殺害した森赳師団長に宛てた遺書を芳賀に提出した。
 森閣下 霊前ニ
 陛下ノ為 誠ニ申シ訳ナキ コトヲ致シマシタ トウカ オ許シ下サイ アノ世テ 必ス 御詫ヒイタシマス
 畑中が自決したのは午前11時過ぎ、皇居前の芝生の上で腹を切り、森を撃った拳銃で自らの頭を撃ち抜いた。同じ場所で首謀者の一人、椎崎二郎中佐も軍刀を腹に突き刺し、拳銃で自決した。
 宮城事件には東条英機元首相の女婿、古賀秀正少佐も深く関わっていた。
 古賀は皇居賢所(かしこどころ)に土下座して礼拝した後、部下の一人に「若い者は死ぬな。全責任は俺が負う」と言ったと伝えられる。その後、森の遺骨(※1)が安置されている近衛師団司令部の貴賓室へ行き、割腹の上、とどめの拳銃の引き金をひいた。
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 昭和天皇が宮城事件の顛末(てんまつ)を知ったのは、夜が明けてからだった。
 《侍従武官長蓮沼蕃(しげる)は東部軍管区司令官と同道、御文庫に参殿、七時三十五分に単独にて拝謁し、事件の経過並びにその鎮圧につき奏上する。八時、天皇は侍従長藤田尚徳(ひさのり)をお召しになり、事件の発生を嘆かれる》
 この日、快晴。
 正午がゆっくり近づいていた--。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)
(※1)畑中少佐らが殺害した森師団長の遺体は15日早朝、検視もしないまま司令部近くの窪地で荼毘(だび)に付されたが、その理由や経緯については諸説ある。遺骨は師団長室の隣にあった貴賓室に安置された。なお、宮城事件で森師団長ら2人が殺害され、畑中少佐ら3人が自決したほか、事件を鎮圧した東部軍管区の田中司令官も9日後の8月24日に自決した
【参考・引用文献】
○竹下正彦「機密作戦日誌」(軍事史学会編『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌』新装版下巻所収)
○迫水久常『機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで』(ちくま学芸文庫)
○鈴木貫太郎口述「終戦の表情」(外務省編『終戦史録』所収)
○北畠暢男「玉音盤奪取の偽師団長命令」(『文
藝春秋』平成17年9月号所収)
○森下智『近衛師団参謀終戦秘史』(非売品)
○宮内庁編『昭和天皇実録』34巻