【昭和天皇の87年】近衛師団長を惨殺! クーデター部隊が皇居に侵入した - 産経ニュース

【昭和天皇の87年】近衛師団長を惨殺! クーデター部隊が皇居に侵入した

画=筑紫直弘
宮城事件(1)
 「自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい」-。昭和20年8月14日、皇居の地下10メートルの御文庫付属室で下された、終戦の聖断。それを陸軍の抗戦派はどう受け止めたか。
 中堅将校のリーダー格、陸軍省軍務課内政班長の竹下正彦中佐が、同日の「機密作戦日誌」にこう記している。
 「竹下ハ万事ノ去リタルヲ知リ、自席ニ戻リシガ、黒崎中佐、佐藤大佐等相踵(あいつい)デ来リ、次ノ手段ヲ考フベキヲ説キ、特ニ椎崎、畑中ニ動カサル」「茲(ここ)ニ於テ『兵力使用(クーデター)第二案』ヲ急遽起案ス」「(御前会議終了後、竹下は阿南惟幾陸相に)兵力使用第二案ヲ出シ、(終戦の)詔書発布迄(まで)ニ断行セムコトヲ求ム。之二対シ、大臣ハ意少カラズ動カレシ様ナリ」
 竹下ら抗戦派将校は、クーデターを諦めていなかったのだ。
 だが、阿南以外の陸軍長老、とくに参謀総長の梅津美治郎には、聖断に逆らう意志など毛頭なかった。
 14日午後、阿南が竹下らに迫られ、参謀総長室を訪れたときのやりとりを、たまたま居合わせた総合計画局長官の池田純久が聞いている。
 阿南「クーデターをやっても戦争を継続しようという意見があるがどうだろう」
 梅津「すでに大命は下った。これを犯してクーデターをやる軍隊は不忠の軍隊である。今は御聖断に従うのみ。正々堂々と降伏しよう。これが軍の最後の勤めであろう」
 梅津はその後、教育総監、第1、第2総軍司令官、航空総軍司令官とともに、参謀次長が発案した陸軍方針「皇軍は飽(あ)くまで御聖断に従い行動す」に署名。これに阿南も署名し、陸軍全体が暴走する危険はなくなった。
 政府もまた、ただちに閣議を開いて終戦の詔書案を審議した。一部の文言に阿南が待ったをかけたため、最終案の内奏は午後8時以降にずれ込んだが、昭和天皇が署名し、全閣僚が副署して、終戦が正式決定する。
 ときに14日午後11時。終戦の詔書は翌15日正午に、昭和天皇の玉音放送によって公表されることとなった。
 昭和天皇実録によれば14日午後11時25分、《(昭和天皇は)日本放送協会により設営されたマイクを御使用になり、放送用録音盤作製のため、大東亜戦争終結に関する詔書を二回にわたり朗読される。宮内大臣石渡荘太郎・侍従長藤田尚徳・侍従三井安弥・同戸田康英・情報局総裁下村宏が陪席する。録音盤は、侍従徳川義寛により階下の侍従職事務官室の軽金庫に収納される》(34巻48頁)
 だが、これで終わりではなかった。その1時間後、この録音盤を狙って、抗戦派の一部が遂に決起するのだ。
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 日付が変わった8月15日、大日本帝国が自由意思をもつ最後の一日は、宮城内への軍靴の響きで始まった。
 《十五日、陸軍省軍務課員らを中心とする一部の陸軍将校は、ポツダム宣言受諾の聖断撤回のため、近衛師団を以て宮城と外部との交通通信を遮断するとともに、東部軍の兵力を以て要人を拘束、放送局等を占拠するクーデター計画を立案し、これを実行に移す》(34巻49頁)
 後に宮城事件と呼ばれる、抗戦派将校の暴発である。
 事件は15日午前1時すぎ、陸軍省軍務課の畑中健二少佐、陸軍通信学校教官の窪田兼三少佐、航空士官学校区隊長の上原重太郎大尉らが近衛第1師団司令部に森赳(たけし)師団長を訪ね、クーデターに反対の森に向かって畑中が発砲、上原が斬殺したことから急展開する。
 これを制止しようとした第2総軍参謀の白石通教(みちのり)中佐も窪田に斬殺された。
 続いて畑中は、虚偽の師団作戦命令を発し、それに基づいて近衛歩兵第2連隊の一部が宮城内に展開。第1連隊の一部は東京・内幸町の放送会館を占拠した(※1)。
 さらに、玉音放送の録音を終えて宮城から出ようとする下村宏内閣情報局総裁や大橋八郎日本放送協会会長ら18人が将兵らに足止めされ、二重橋の衛兵所に監禁された。
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 畑中らの狙いは、君側(くんそく)の奸(かん)と見なした木戸幸一内大臣の排除と、玉音放送を収めた録音盤の奪取だ。いずれかが畑中らの手に落ちれば、事態はさらに悪化するだろう。
 このとき、辛くも危機を乗り切ったのは、徳川義寛侍従の機転だった。
 徳川は抗戦派将校が決起する前から、万が一を思って録音盤を侍従職事務官室の軽金庫に収め、その周りを書類で埋めて隠していた。また、決起を知るや直ちに木戸と石渡荘太郎宮内大臣を案内して地下の防空室に避難させた。
 「私(徳川)は二回程廊下に出て見た。兵をつれた将校や二、三人の将校だけが何度も廊下を通った。録音盤と内大臣を捜していた。(中略)少し経って兵を連れた別の将校が来て、内大臣室を聞いたので、私は『案内するまでもなく、この階段を登ってゆけば最上階に内大臣室がある』と教えたが、内大臣が自室に居られないことを承知の上であった。将兵の一部は階上へ、その他は階下へと去って行き、私は日の出も間近いと感じた」
 未明の皇居で繰り広げられる、前代未聞の軍暴発。それに終止符を打ったのは陸相、阿南の割腹自決だった--。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)
(※1)畑中少佐ら決起将校は森師団長を殺害後、事前に準備していた作戦命令に師団長印を押し、「近作命甲第五八四号」を発令。「一、師団ハ敵ノ謀略ヲ破摧(はさい)天皇陛下ヲ奉持我カ国体ヲ護持セントス」「二、近歩一長(近衛歩兵第1連隊長)ハ其ノ主力ヲ以テ東二東三営庭及ビ旧本丸馬場付近ヲ占領シ外局ニ対シ皇城ヲ守護シ奉ルヘシ又約一中隊ヲ以テ東京放送局ヲ占領シ放送ヲ封止スヘシ」「三、近歩二長(近衛歩兵第2連隊長)ハ主力ヲ以テ宮城吹上地区ヲ外周ニ対シ守護シ奉ルヘシ」などとする近衛命令を各部隊に下達したが、虚偽と見破った連隊長、部隊長も少なくなかった。実際に動いたのは近衛歩兵第1、第2連隊の一部で、このうち宮城内で玉音放送の録音盤と木戸幸一内大臣を捜索したのは2個小隊ほどだった。
【参考・引用文献】
◯宮内庁編『昭和天皇実録』34巻
◯外務省編『終戦史録』(官公庁資料編纂会)
○竹下正彦「機密作戦日誌」(軍事史学会編『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌』新装版下巻所収)
○池田純久『日本の曲り角 軍閥の悲劇と最後の御前会議』(千城出版)
○森下智『近衛師団参謀終戦秘史』(非売品)
○下村海南『終戦秘史』(大日本雄弁会講談社)
○御厨貴、岩井克己監修『徳川義寛終戦日記』(朝日新聞社)