【昭和天皇の87年】前例なき御前会議 陸海軍両総長は泣きながら抗戦を訴えた - 産経ニュース

【昭和天皇の87年】前例なき御前会議 陸海軍両総長は泣きながら抗戦を訴えた

画=筑紫直弘
涙の聖断(1)
 帝都に空襲警報が鳴り響く昭和20年8月13日の夕刻、空から落ちてきたのは、爆弾ではなく紙だった。
 「日本の皆様 私共は本日皆様に爆弾を投下するために来たのではありません。お国の政府が申込んだ降伏条件をアメリカ、イギリス、支那並にソビエット連邦を代表してアメリカ政府が送りました回答を皆様にお知らせするために、このビラを投下します」
 翌14日の早朝、米軍機B-29がビラを散布したとの情報を得た内大臣の木戸幸一は愕然とした。政府の正式発表より前に降伏が広く知られれば、国内は大混乱となり、それに乗じて抗戦派などが暴発する恐れもある。
 首相の鈴木貫太郎も、同じ思いだった。もはや事態は一刻の猶予も許されず、内閣から正式な手続きをとって御前会議を開くのでは間に合わない。
 鈴木は急ぎ木戸を訪ね、相談の上、昭和天皇の決心にすがることにした。
 以下、『昭和天皇実録』が書く。
 《(14日)午前八時三十分、(昭和天皇は)御文庫において内大臣木戸幸一に謁を賜い、米軍機がバーンズ回答(※1)の翻訳文を伝単(宣伝ビラ)として散布しつつありとの情報に鑑み、この状況にて日を経ることは国内が混乱に陥る恐れがある旨の言上を受けられ、戦争終結への極めて固い御決意を示される。引き続き、特に思召しを以て内閣総理大臣鈴木貫太郎及び内大臣に列立の謁を賜う》(34巻43頁)
 戦前は「宮中・府中(政府)の別」が厳しく、首相と内大臣が並んで拝謁するのは初めてだ。
 昭和天皇もまた、非常の覚悟だったのだろう。
 このとき鈴木は、内閣からの奏請ではなく、天皇の意向による御前会議開催を求め、その場で許された。これも前例のないことだった。
 続いて昭和天皇は、在京の陸海軍元帥を宮中に集めた。
 《午前十時二十分、御文庫に元帥陸軍大将杉山元・同畑俊六、少時遅れて参殿の元帥海軍大将永野修身をお召しになり、三十分にわたり謁を賜う。終戦の御決心をお示しになり、三名の所見を御下問になる》(34巻44頁)
 これに対し杉山と永野は徹底抗戦を主張、畑は交渉継続を求めたが、昭和天皇は《戦争終結は深慮の末の決定につき、その実行に元帥も協力すべき旨を仰せになる》(同)
× × ×
 同日午前10時50分、昭和天皇の異例の「思召し」により、全閣僚と陸海両総長、両軍務局長、枢密院議長ら政府軍部の全首脳が御文庫附属室に集められた。閣僚らは正装する間もなく、まちまちの背広姿だったという。
 御文庫附属室は、皇居の地下10メートルにある堅固な防空施設だ。10トン級の超大型爆弾にも耐えうる構造で、会議室2つ、控室2つが、厚さ1メートルのコンクリート壁で仕切られている(※2)。
 この日、会議室の正面に小机と玉座が置かれ、向かい合って椅子が3列。前列には首相、枢密院議長、外相、陸海両相、両総長らが、中列には残りの閣僚らが、後列には内閣書記官長、総合計画局長官、陸海両軍務局長らが座った。
 これから始まる帝国最後の御前会議で、日本の運命が決まるのだ。外光の届かない地下の空間を、静寂と緊張が満たした。
 午前11時2分、侍従武官長を従え、昭和天皇が入室する。一同は起立し、首相の鈴木が玉座の前に進んだ。
 《首相は前回の御前会議以後の最高戦争指導会議及び閣議の経過につき説明し、この席上において改めて無条件受諾に反対する者の意見を御聴取の上、重ねて御聖断を下されたき旨を言上する》(34巻44~45頁)
 鈴木から発言を促され、梅津美治郎参謀総長と阿南惟幾(これちか)陸相は、連合国の回答では国体護持に不安があること、再照会すべきであること、聞き入れられないなら抗戦して死中に活を求めることを、声涙で訴えた。
 豊田副武(そえむ)軍令部総長も泣いていた。
 「今日までの戦争遂行において、海軍の努力の足らなかったことは認めます。陸海軍の共同も決して十分ではありませんでした。これからは過ちを改め、心を入れ替え、最後の奮闘をいたしたいと思います。本土決戦の準備はできております。いま一度、戦争を継続することをお願い申し上げます」
 三人の発言のあと、再び静寂。
 しばらくして、昭和天皇が口を開いた--。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)
(※1)バーンズ回答 国体護持(天皇の地位の保全)を唯一絶対の条件とし、ポツダム宣言を受諾するとした日本政府に対する連合国の回答。対日強硬派で知られる米国務長官ジェームス・バーンズの書簡として発表されたことから、この名がついた。ポツダム宣言を補足する5つの条項が示されたが、このうち第1項の「天皇は連合軍最高司令官にsubject to(従属)する」と、第4項の「日本の政治形態は日本国民の自由に表明する意思により決定される」との文言が、国体護持の条件を拒絶したとも受け取られ、政府と軍部は大混乱に陥った。
(※2)御文庫付属室 日米開戦前の昭和16年9月、陸軍築城部本部が皇居の吹上御苑内に造営した防空施設。陸軍は当時、昭和天皇の住居を兼ねた地上1階地下2階の防空施設「御文庫」の建設を進めており、それが完成するまでの予備施設として、付属室がつくられた。17年7月に御文庫が完成。500キロ爆弾に耐えうる構造で、付属室との間に地下道も作られたが、米軍がヒトラーの山荘を10トン爆弾で空襲したとの情報があり、陸軍は20年6~7月、付属室の補強工事を実施。超大型爆弾にも耐えうる日本最強の防空施設とした
【参考・引用文献】
◯宮内庁編『昭和天皇実録』34巻
◯外務省編『終戦史録』(官公庁資料編纂会)
○下村海南『終戦秘史』(大日本雄弁会講談社)
○池田純久『日本の曲り角 軍閥の悲劇と最後の御前会議』(千城出版)