【昭和天皇の87年】悲劇の満州在留邦人 婦女子らの列にソ連軍戦車が突っ込んだ! - 産経ニュース

【昭和天皇の87年】悲劇の満州在留邦人 婦女子らの列にソ連軍戦車が突っ込んだ!

画=筑紫直弘
葛根廟事件
 昭和20年8月14日、事件は、満州西北部の興安総省葛根廟(かっこんびょう・現中国内モンゴル自治区)で起きた。
 省都の興安が8月10日にソ連軍機の無差別爆撃を受けたため、約4千人の在留邦人は3班に分かれて北方へ避難を開始した。このうち、約40キロ離れた葛根廟に向かって移動中の約1300人が、14日午前11時40分、草原の中でソ連軍の戦車部隊と遭遇した。
 興安総省旗公署参事官の浅野良三に率いられた在留邦人の大多数は、婦女子と老人だった。約80人の男たちの一部が警戒のため小銃を携行していたが、民間人が避難しているのは誰の目にも明らかだ。
 しかしソ連軍は、この避難民に向けて、一斉に銃弾を浴びせた。
 生存者らの証言によると、殺戮(さつりく)は凄惨(せいさん)を極めた。
 ソ連軍は最初、無抵抗の姿勢を示した浅野を機関銃で射殺(※1)。続いて戦車14両が避難民の列に突っ込み、婦女子らを轢き殺していった。
 戦車は列を通り過ぎてから反転し、再び列に突っ込む。キャタピラに轢き回された死体が空中に飛んだ。
 戦車の攻撃が終わると、歩兵部隊が逃げ惑う避難民をところどころに包囲し、自動小銃で掃射した。
 殺戮は、一時間以上にわたって続いたという。
× × ×
 当時、興安に居住し辛くも難を逃れた元日銀副総裁の藤原作弥氏が、生存者の手記や体験談を著書に掲載している。
 「やがて戦車の群れは止まり、中から何人ものソ連兵がおりてきて、倒れている人や逃げまどう人々を片はしから撃ち殺していきました。一人の兵隊は、私たち子供の馬車までやってきて、病気で寝ていたおじいさんを引きずり出し、自動小銃で頭を撃ち抜きました」(在満国民学校で当時1年生だった男性)
 「壕の先の方で女の人が三十人ぐらい集まり、子供たちを真中にして、泣きわめいていました。それを見つけた(ソ連軍の)女兵士は、何人かの男の兵隊を呼んできて、一緒にダダダダ…と続けざまに撃ちました。一人残らず倒れるまで撃ちました」(当時2年生だった女性)
 「戦車が、撃ち殺された母をまた轢いて、押しつぶしていきました。あの恐ろしい場面を私は昨日のように覚えています。あの気の遠くなるような広い広い草原を、妹とただ二人。淋しさと恐しさと飢餓の中で、はいずりまわったのでした。…(あとはもうお許しください。書けませ
ん)」(匿名の手記)
 地獄は、ソ連軍が去っても終わらなかった。
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 旧厚生省引揚援護局の調査によると、この事件の推定死者数は約1000人。だが、このうちソ連軍による殺戮は約600人で、残りの約400人は集団自決などの犠牲者だとされる。
 敵に囲まれた草原で、孤立無援の在留邦人が味わった恐怖、絶望はどれほどだったか。生存者の一人はこうつづっている。
 「ソ連兵の殺戮(さつりく)に続いて、生存者がこの世を儚(はかな)み自殺する者が続出しました。お互いに刃物を握り、一、二の三と叫んで刺し違えて倒れていく姿には鬼気迫るものがあり、残酷でこの世の出来事とはとても思えませんでした。(中略)親が子供の首に紐をかけて殺しているのが目に映りましたが、子供の手は虚空を掴(つか)み、足をばたつかせて動かなくなっていきました」……
 夜になると、今度は近在の農民らが、暴民となって生存者を襲った。
 「ふっと気が付くと、何時の間に近づいて来たのか、麻袋を担ぎ大きな丸太ん棒を持った満人がいきなり雅ちゃんの着ていた外套を奪おうとしていました。私が必死で抵抗しますと、持っている丸太ん棒で私を叩くのです。どうする事もできません。為すがままです。一人が去ったかと思うと、又別のが来ます。(中略)その麻袋はどれもこれも大きく膨れています。死人の着物だけでなく、生きている人の着物もみんな剥ぎ取ってしまったのでしょう。私達は全裸にはなりませんでしたが、中には全裸にされ、コーリャンの葉っぱで覆っていた人も居たそうです」……
 一方で、親を失ってさまよう子供たちを救い、わが子同然に養育した中国人が多数いたことも、忘れてはならない。
× × ×
 ところでこの間、在留邦人を守るはずの関東軍は何をしていたのか。
 ソ連軍侵攻前、省都の興安は3個師団を有する第44軍に守られていた。しかし8月10日、関東軍総司令部は、興安の邦人を残して第44軍を首都新京や奉天に後退させる命令を下す。同軍はこれを邦人に知らせぬまま、秘密裏に移動を開始した。
 事件当時、興安周辺は無防備状態だったのだ。
 関東軍の方針は、在留邦人を犠牲にしてでも全軍を後退させ、長期持久戦に持ち込むというものだった。このため在留邦人の逃避行は悲惨を極め、葛根廟と類似の事件が各地で起きた(※2)。
 防衛庁編集の公刊戦史が、悔恨を込めて書く。
 「最後の対ソ防衛戦における在満居留民の動態は、我が国の歴史上類例のない大悲劇であり、それはまた統帥との相関性についても大きな問題として残されている……」
 地上戦に巻き込まれ、文字通りの“地獄”に突き落とされた満州の在留邦人。凄惨な被害が刻一刻と拡大する中、東京では、最後の御前会議が始まろうとしていた--。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)
(※1)邦人避難のリーダー役だった浅野良三参事官はソ連軍に射殺される直前、馬上で刀を抜いたとする説もある
(※2)葛根廟事件のほか終戦前後に起きた虐殺事件では、1945(昭和20)年8月13日に南満州鉄道(満鉄)の避難列車が満州・吉林省の小山克(しょうさんこく)で暴民に襲撃され、多数の邦人婦女子が強姦、虐殺されたうえ、100人以上が集団自殺に追い込まれた小山克事件。戦後の1946(昭和21)年2月に旧満州・通化市で、民間の邦人約2千人が中国共産党の八路軍と朝鮮人民義勇軍に虐殺された通化事件などがある
【参考・引用文献】
○興安街命日会編『葛根廟事件の証言 草原の惨劇・平和への祈り』(新風書房)
○藤原作弥『満州、少国民の戦記』(新潮社)
○田中忍「血涙」(『葛根廟事件の証言』所収)
○佐藤百合枝「葛根廟事件からの生還」(同)
○佐村恵利編『あゝホロンバイル 元満洲国興安総省在住邦人終戦史録』(非売品)
○防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 関東軍(二)関特演・終戦時の対ソ戦』(朝雲新聞社)