【昭和天皇の87年】タトヘ逆臣トナリテモ… 陸相に“決起”迫る強硬派将校 - 産経ニュース

【昭和天皇の87年】タトヘ逆臣トナリテモ… 陸相に“決起”迫る強硬派将校

画=筑紫直弘
クーデター計画
 「吾等少壮組ハ、情勢ノ悪化ヲ痛感シ、地下防空壕ニ参集、真剣ニクーデターヲ計画ス。(中略)竹下ヨリ大綱ヲ示シ、手分ケシテ細部計画ヲ進メ、更ニ秘密ノ厳守ヲ要求ス」「夜、竹下ハ稲葉、荒尾大佐ト共ニ、『クーデター』ニ関シ、大臣ニ説明セント企図シアリ所、二〇〇〇頃閣議ヨリ帰邸セル大臣ヨリ招致セラレ、椎崎、畑中ト同行官邸ヲ訪ヒ、(中略) 仮令(たとへ)逆臣トナリテモ、永遠ノ国体護持ノ為、断乎(だんこ)明日午前、之ヲ決行セムコトヲ具申スル所アリ」
 陸軍省軍務課内政班長、竹下正彦中佐が記した昭和20年8月13日付の「機密作戦日誌」だ。竹下は陸軍内の最強硬派で、阿南惟幾(これちか)陸相の義弟でもある。
 阿南の秘書官、林三郎大佐が戦後に書いた回想記によれば、竹下らのクーデター計画は以下のような内容だった。
 一、(ポツダム宣言受諾をめぐり)日本の希望する条件を連合国側が容認するまで、交渉を継続するよう(昭和天皇の)御裁下を仰ぐを目的とする
 二、使用兵力は近衛第一師団および東部軍管区の諸部隊を予定する
 三、東京都を戒厳令下におき、要人を保護(実際には監禁)し、陛下を擁して聖慮(せいりょ)の変更を奏請する
 四、陸軍大臣、参謀総長、東部軍管区司令官、近衛第一師団長の全員同意を前提とする
 13日夜、陸相官邸で竹下ら中堅将校に囲まれ、この計画を突きつけられた阿南は何を思っただろう。
 阿南は昭和4年から8年にかけ、侍従武官として昭和天皇に仕えた。敬愛の念は誰よりも厚い。
 その自分が、昭和天皇の意思に反すると知りながら、クーデターの先頭に立つのか-。
 秘書官として側にいた林は、この頃の阿南が「どうも西郷さんのようにかつがれそうだ」とつぶやくのを聞いている(※1)。
 林によれば阿南は、いったん竹下らを退室させた後、計画に参画した荒尾興功(おきかつ)軍事課長を呼び、クーデターに訴えても国民の協力を得られないと、否定的な意見をほのめかしたという。
 一方、竹下らは阿南の心中をこう受け止めた。
 「大臣ハ容易ニ同ズル色ナカリシモ、『西郷南州ノ心境ガヨク分カル』、『自分ノ命ハ君等ニ差シ上ゲル』等ノ言アリ」
 まさしく阿南は西郷隆盛のように苦悩し、葛藤し、逡巡(しゅんじゅん)していた。そして翌朝、決心が持てぬまま行動に出る。
× × ×
 以下、昭和天皇実録が書く。
 《(14日)午前七時、陸相は軍事課長とともに参謀総長に対し、本日午前十時より開催予定の御前会議の際、隣室まで押しかけ、侍従武官をして天皇を御居間に案内せしめ、他者を監禁せんとするクーデター計画の決行につき同意を求めるが、参謀総長は宮城内に兵を動かすことを非難し、全面的に反対する》(34巻43頁)
 この記述からも明らかなよう、阿南は竹下らのクーデター計画に、いったんは乗りかかった。しかし参謀総長の梅津美治郎に反対され、むしろほっとしたのではないか。
 梅津も抗戦派だが、軍の規律を何より重視した。昭和11年の二・二六事件後に陸軍次官となり皇道派の粛正を断行したほか、14年のノモンハン事件後に関東軍司令官となって下剋上的な空気を一掃している(※2)。
 この日、梅津は阿南に言った。
 「今は御聖断に従うよりほかに道はない」
 情に流されやすい阿南が陸相としての統率力を失いつつある中で、軍規に厳しい梅津が参謀総長だったことが日本に幸いした。
 梅津の反対により、竹下らのクーデター計画は頓挫する。聖断に逆らうのだ。全軍一致でなければ成功しないと、首謀者の竹下はみていた。
 しかし、血気にはやる中堅将校の一部はおさまらず、のちに暴走する。
 彼らは、たとえ聖断が下されても、それが君側(くんそく)の奸(かん)によるものなら盲従してはならず、君側の奸を取り除いて正しい聖断に導くことこそ忠義であると信じていた。また、たとえ何百万の国民の命が奪われようと、戦わずして負けるより戦って負ける方が、後世に残るものが多いと信じていた。
 海上護衛総司令部参謀だった大井篤(海軍大佐)によれば、クーデター計画に関与した将校の一人が戦後、大井に向かってこう言ったという。
 「仮に民族が絶滅しても、国体護持に殉じた精神は世界史の頁を飾るであろう。日本国家の特質たる国体を失い、奴隷として残存することは民族として忍びないことだ」
 彼らの思想は、「狂信的」の一言で断罪できるものではないかもしれない。ただ、彼らは知らなかっただろう。地上戦に巻き込まれた民間人がみる地獄を。
 その地獄がこの日、この瞬間、満州の広野で起きていた--。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)
(※1)南洲翁こと西郷隆盛は、明治10年の西南戦争で旧薩摩藩士にかつがれて挙兵し、政府軍に敗れ自刃した。明治維新の元勲であり、皇室尊崇の念が強かった西郷だが、挙兵により「逆賊」とされ、官位を褫奪(ちだつ)された。しかしその後、西郷をしのぶ明治天皇の意向もあり、明治22年の大赦でゆるされて正三位を追贈された。
(※2)ノモンハン事件は1939(昭和14)年5~9月、満州とモンゴルの国境で発生した関東軍とソ連軍の軍事衝突。不拡大方針をとる日本政府と陸軍中央に対し、関東軍は作戦参謀の辻政信らを中心に越境攻撃を計画、独断専行した。だが、ソ連軍の猛攻を受け、結果的に計1万7400人余の死傷者を出して敗退した(のちにソ連軍も大損害を受けていたことが判明)。それ以前にも関東軍は一部将校による独断専行が多く、陸軍中央はノモンハン事件後に人事を一新。二・二六事件後の粛軍に尽力した梅津美治郎を軍司令官とした。梅津はその任を果たし、以後、関東軍の統制違反はほとんどなくなった。
【参考・引用文献】
○竹下正彦「機密作戦日誌」(軍事史学会編『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌』新装版下巻所収)
○林三郎「終戦ごろの阿南さん」(雑誌『世界』昭和26年8月号)
◯宮内庁編『昭和天皇実録』34巻
○雑誌『世界』昭和26年8月号所収の高木惣吉「連合軍進駐の前後」
◯外務省編『終戦史録』(官公庁資料編纂会)所収の「大井篤手記」