【昭和天皇の87年】首相を改心させた「陛下の思召」 風は終戦派に吹き始めた - 産経ニュース

【昭和天皇の87年】首相を改心させた「陛下の思召」 風は終戦派に吹き始めた

画=筑紫直弘
バーンズ回答の衝撃(5)
 即時終戦につながるバーンズ回答を受諾せず、占領地域の限定など新たな条件を再照会して「(連合国側が)聞かれざれば戦争継続もやむを得ない」と発言した首相、鈴木貫太郎の“変心”-。もはや最後の頼みは昭和天皇しかいないと、皇居へ車を急がせる外相、東郷茂徳は、車中でぐっと拳を握りしめていた。
 昭和20年8月12日の、夜の帳(とばり)が下り始めた頃である。
 それより前、閣僚懇談会の散会後に東郷は鈴木と面談し、「首相の意見には納得しがたい。自分は単独上奏するかも知れない」と非常の決意を伝えていた。それを今、実現しようというのだ。
 ただ、内閣が再照会論で固まりつつある中で反対意見を単独上奏すれば、仮に昭和天皇の支持を得られたとしても、閣内不一致が露見し内閣崩壊の危機に直面する。
 皇居についた東郷は、まずは内大臣の木戸幸一を訪ねて相談した。
 木戸は、昭和天皇が即時終戦の決意であることを誰よりも知っている。鈴木の変心と東郷の決意に驚きつつも、「陛下の御意図は、最早(もはや)お伺いするまでもなくきまっておいでであるから、自分から鈴木首相を説得しよう」と言って単独上奏を思いとどまらせ、鈴木に面談を申し入れた。
 このとき鈴木は、抗戦派に押されて再照会論を表明してしまったことに、内心は揺れていたようだ。木戸の面談要請を渡りに船と、自ら皇居を訪れた。外務省編集の『終戦史録』によれば、「内府(木戸)は、このとき陛下の思召(おぼしめし)として、外相の意見通り進むを可とする旨を述べた模様である。首相は、思召と聞いて早速賛意を表した」
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 ちょうどその頃、中立国の在スイス公使から、ポツダム宣言受諾をめぐる連合国の正式回答が外務省に入電した。未明に傍受したバーンズ回答と同一の内容である。
 しかし、外務省はこれを翌13日早朝に届いたことにし、その間、形勢が好転するのを待った。
 果たして、木戸の説得で鈴木が再び即時終戦の意志を固めたほか、海外の新聞が連合国の回答について、実質的に日本の要求を認めたものと報じているとの情報も入ってきた。
 中でも外務省が注目したのは、文字通りの無条件降伏を求めるソ連の動きだ。在スウェーデン公使からの公電によれば、ソ連は正式回答の文面に強く反対し、アメリカが「天皇の地位を認めざれば日本軍隊を有効に統御するものなく連合国は之が始末になお犠牲を要求せらるべし」と説得した結果、ようやく文面が決まったという。
 こうした事情を閣僚に伝えれば、形勢は終戦派に大きく傾くに違いない。
 「憂鬱に閉ざされた昨日の空気は今朝になって急に明るくなって来た」と、外務次官の松本俊一が戦後の手記につづっている。
 一方、陸軍中央部でもこの頃、皇室の存廃について欧米メディアがどう報じているかを丹念に調べ、終戦派への反論材料を集めていた。
 抗戦派の筆頭、陸軍省軍務課内政班長の竹下正彦中佐が8月13日付の「機密作戦日誌」に書く。
 「ニューヨークタイムス及ヘラルドトリビューン両紙ノ、日本皇室ニ関スル論説放送アリ。皇室ハ廃止セラルベシトノ露骨ナルモノナリシヲ以テ、大イニ喜ビ急遽印刷ノ上、閣議席上ノ大臣ニ届ケタレドモ、迫水(久常内閣書記官長)、閣議中配布セザリシ由ナリ」……
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 終戦派と抗戦派が水面下で動く中、13日午前9時から始まった最高戦争指導会議は、即時受諾を主張する外相を首相と海相が支持し、国体護持などについて再照会すべきと訴える陸相を陸海両総長が支持するという、3対3の意見の応酬で膠着(こうちゃく)状態となった。
 だが、即時受諾論に分があったといえよう。昭和天皇という、見えない1票があったからだ。
 午後3時まで断続的に続いた会議の途中、昭和天皇が外相を宮中に呼んだ。
 《午後二時二十分、(天皇は)御文庫において外務大臣東郷茂徳に謁を賜い、昨日午後の閣僚懇談会以来のバーンズ回答をめぐる審議の状況につき奏上を受けられる。天皇は外相の主張に支持を表明され、首相にもその旨を伝えるよう仰せられる》(昭和天皇実録34巻42頁)
 風が、再び終戦派に吹きはじめた-。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜に掲載)
【参考・引用文献】
◯宮内庁編『昭和天皇実録』34巻
◯外務省編『終戦史録』(官公庁資料編纂会)
○『終戦史録』所収の「松本俊一手記」
○竹下正彦「機密作戦日誌」(軍事史学会編『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌』新装版下巻所収)
最高戦争指導会議 政府と軍部のトップが連絡調整を強化し、一元的な戦争指導を行うための会議。構成員は首相、外相、陸海両相、参謀総長(陸軍)、軍令部総長(海軍)で、戦争指導の根本方針を策定した。ただし公式の決定機関ではなく、最終的には閣議決定などが必要だった