枢密院議長が首相に横やり 「これでは国体護持が保証できない」

昭和天皇の87年
画=筑紫直弘

バーンズ回答の衝撃(3)

 「国体護持」を唯一絶対の条件としたポツダム宣言受諾をめぐり、終戦派と抗戦派を再び衝突させた、連合国のバーンズ回答-。国内外の戦争被害が急拡大する中、これほど日本の首脳部を揺るがせた混乱要因はないだろう。

 終戦派の本丸、外務省の解釈はこうだった。

 バーンズ回答の第1項に書かれた「天皇は連合軍最高司令官にsubject toする」のsubject toは「制限の下に置かれる」の意味であり、降伏すれば当然主権は制限されるのだから、一般的なことを明記しただけで国体の変更を要求したものではない。

 また、第4項に「最終的な日本の政治形態(The ultimate form of government of Japan)は日本国民の自由に表明する意思により決定される」とあるのは、連合国が日本の好まない政体を押し付ける意図のないことをアメリカ流に表現したまでで、やはり国体の変更を要求したものではない-。

 この解釈を、当初は首相の鈴木貫太郎も受け入れた。

 だが、思わぬ人物から横やりが入る。

 枢密院議長の平沼騏一郎が、バーンズ回答では国体護持が保証できないと、鈴木に向かって強硬に主張したのだ。

 平沼は木戸幸一内大臣にも面談し、このままでは受け入れられないと訴えたが、昭和天皇の意を知る木戸は一顧だにしなかった。昭和天皇実録には、《内大臣は(平沼に対し)外務当局の差し支えないとする解釈を信頼し、現状のまま進むべき旨を説く》と記されている(34巻40~41頁)。

 一方、鈴木の心は揺れた。

 平沼は8月10日の第1回御前会議で、ポツダム宣言受諾の聖断を導いた功労者でもある。

 受諾条件を「国体護持」に絞るとした外相案を支持する首相、海相と、それに反対する陸相、陸海両総長とで意見が3対3に割れたとき、臨時に出席した平沼が外相案を支持したからこそ、有利な形で聖断を下す環境が整った。鈴木にはその時の恩義がある。

 平沼もまた、自らの支持表明で「国体護持」が唯一絶対の受諾条件となった以上、この一点だけは明確にしておかなければ気が済まなかった。

 国体論の信奉者である平沼にとって、「皇室君臨の名(めい)、皇室統治の実(じつ)は変わるべからざるもの」であり、「日本国民の自由に表明する意思により決定される」ものでは断じてなかったからだ。

 このときの平沼と鈴木とのやりとりを、外相秘書官などを務めた加瀬俊一が戦後につづっている。

 「(報告のため)総理官邸に赴くと、平沼男(爵)が来合せて、連合国側回答中の第一項及び第四項は国体維持を不可能とすると述べ、首相もまた大阪城の外濠を埋めるに等しいと云つて若干動かされた様子も見えぬではなかつた。(それまで終戦派に傾いていた)形勢はかくて再び逆転の兆を示した」

 事実、平沼の横やりを受けた鈴木は、直後の閣僚懇談会で、すべてを振り出しに戻すような発言をしてしまう-。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

【参考・引用文献】

◯宮内庁編『昭和天皇実録』34巻

◯外務省編『終戦史録』(官公庁資料編纂会)

○平沼騏一郎述『国体に関する訓辞』(農村自治研究倶楽部)

平沼騏一郎 枢密院議長や首相などを務めた戦前の司法界最大の実力者。1867(慶応3)年に岡山県で生まれ、上京して帝国大学法科大学を卒業。司法省に入り、東京控訴院検事、大審院次席検事、司法次官、検事総長、大審院長、法相(第2次山本権兵衛内閣)などを歴任。司法界に絶大な影響力を持ち、昭和11年に枢密院議長、14年に首相に就任した。一方で右翼団体「国本社」の会長を務め、観念右翼の巨頭と評された。ファシズム的だと誤解されることも多く、穏健保守派の元老、西園寺公望から嫌われていたが、平沼自身はファシズムを共産主義と並んで危険視しており、むしろ日米関係の改善に尽力した。戦後はA級戦犯に指定され、東京裁判で終身禁固の判決を受ける。昭和27年に病気のため仮釈放となり、直後に84歳で死去した。