【昭和天皇の87年】皇族を一斉呼集 天皇の決意はいささかも揺るがなかった - 産経ニュース

【昭和天皇の87年】皇族を一斉呼集 天皇の決意はいささかも揺るがなかった

画=筑紫直弘
バーンズ回答の衝撃(2)
 「全軍将兵に告ぐ、『ソ』連遂に皇国に寇す、明文如何に粉飾すと雖(いえど)も大東亜を侵略制覇せんとする野望歴然たり、事茲(ここ)に至る、又何をか言はん、断乎(だんこ)神州護持の聖戦を戦ひ抜かんのみ」
 昭和20年8月10日の夕刻、新聞各社に配布された「陸軍大臣布告」だ。国体護持を唯一の条件としてポツダム宣言受諾を決めた昭和天皇の聖断に、背をそむけるような内容である。
 これに誰より驚いたのは当の陸相、阿南惟幾(これちか)だっただろう。布告は抗戦派の一部将校が独断で作成し、阿南には知らされていなかったからだ。
 いよいよ暴走する兆しを見せ始めた陸軍の抗戦派-。「少しく政情に通じた人々は、ここにいたつて、政府と陸軍との最後的対立を来したものと見て、頗(すこぶ)るこれを憂慮した」と、外務省編集の『終戦史録』が書く。
 そんな抗戦派の主張に、半ばお墨付きを与えたのが、「天皇は連合軍最高司令官にsubject toする」とした連合国のバーンズ回答だった。「国体護持の条件は拒絶された」「ポツダム宣言受諾を撤回すべし」と、陸軍将校らの鼻息は荒ぶるばかりだ。
 しかしこの時、抗戦派を抑えようと、昭和天皇が自ら動いた。
 8月12日《午前十一時五分、天皇は御文庫において外務大臣東郷茂徳に謁を賜い、バーンズ回答の趣旨、及びこれに対する措置振りにつき奏上を受けられる。外相に対し、先方の回答どおり応諾するよう取り計らい、なお、首相にもその趣旨を伝えるべき旨を仰せられる》(昭和天皇実録34巻40頁)
 連合国からバーンズ回答を示されても、昭和天皇の即時終戦の決意は、いささかも揺るがなかった。ポツダム宣言を速やかに受諾するよう、弱気になりつつあった外相を激励したのである。
× × ×
 昭和天皇は、日本に戦う余力のないことを知っていた。ここは、たとえ理不尽であっても連合国の回答を受け入れ、一刻も早く終戦して国民の被害を最小限に抑えるしかない。
 続いて昭和天皇は在京の皇族を呼び集め、終戦の決意を伝えて協力を求めた。
 《午後三時二十分、御文庫附属室に宣仁(のぶひと)親王・崇仁(たかひと)親王・恒憲(つねのり)王・邦壽(くになが)王・朝融(あさあきら)王・守正(もりまさ)王・春仁(はるひと)王・鳩彦(やすひこ)王・稔彦(なるひこ)王・盛厚(もりひろ)王・恒徳(つねよし)王・李王垠(ぎん)・李鍵(けん)公をお召しになり、現下の情況、並びに去る十日の御前会議の最後に自らポツダム宣言受諾の決心を下したこと、及びその理由につき御説明になる》(昭和天皇実録34巻41頁)
 開戦以来、皇族が一堂に会するのは初めてだった。東久邇宮(ひがしくにのみや)稔彦王の回顧録によると、皇族は戦時中、「陛下の御耳に雑音を入れないためにというので、拝謁できないことになっていた」という。それだけにこの日、久々に拝した昭和天皇の顔に深い苦悩と非常の決心が刻まれているのを、その場にいた全員が感じ取ったのではないか。
 最長老の梨本宮(なしもとのみや)守正王が、皇族を代表して発言した。
 「私共一同、一致協力して、陛下をおたすけ申し上げます」
 ここに皇族は、一枚岩となった。のちに皇族は終戦の聖旨を各方面軍に徹底させるため、満洲や南方などに飛んでいく。
 一方、宮中が終戦に向けて結束する中、政府は、新たな混乱の谷に突き落とされていた。
 かなめの首相、鈴木貫太郎が揺らぎ始めたのだ-。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)
【参考・引用文献】
◯宮内庁編『昭和天皇実録』34巻
◯外務省編『終戦史録』(官公庁資料編纂会)
○東久邇宮稔彦『私の記録』(東方書房)
バーンズ回答 国体護持(天皇の地位の保全)を唯一絶対の条件とし、ポツダム宣言を受諾するとした日本政府に対する連合国の回答。対日強硬派で知られる米国務長官ジェームス・バーンズの書簡として発表されたことから、この名がついた。ポツダム宣言を補足する5つの条項が示されたが、このうち第1項の「天皇は連合軍最高司令官にsubject to(従属)する」と、第4項の「日本の政治形態は日本国民の自由に表明する意思により決定される」との文言が、国体護持の条件を拒絶したとも受け取られ、軍部をはじめとする抗戦派を勢いづかせることになった。