【昭和天皇の87年】関東軍総司令部の非情な決断 皇帝溥儀は愕然とした - 産経ニュース

【昭和天皇の87年】関東軍総司令部の非情な決断 皇帝溥儀は愕然とした

画=筑紫直弘
関東軍最後の戦い(4)
 関東軍の奮戦は、虎頭要塞だけにとどまらない。
 昭和20年8月9日午前零時を期して満洲の東部、西部、北部の三方から一斉に攻め込んできた150万超のソ連軍により、国境付近を守備する中隊以下の小部隊や監視哨(しょう)の多くは同日中に撃破され、消息を絶った。
 だが一方、大隊以上の部隊は損害を受けつつも応戦し、中でも東部守備の第5軍は、比較にならぬほどの戦力をもつソ連軍の進撃を牡丹江(ぼたんこう・現中国黒竜江省牡丹江市)東側の陣地で15日夕まで食い止め、同地の在留邦人6万人が避難する時間をかせいでいる。
 のちに「関東軍最後の戦い」と呼ばれる奮戦を支えたのは、名もない日本兵の、決死の行動だった。
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 各部隊にとって最大の驚異はソ連軍のT-34戦車だ。これに立ち向かう日本兵の戦闘が、第5軍第126師団の作戦記録に記されている。
 東部国境を越えたソ連軍の主力が牡丹江に進撃するのを阻止するため、予想進路に各部隊を展開した第126師団は、12日午後にT-34戦車と遭遇、翌13日から本格戦闘に入った。
 ソ連軍は14日、T-34戦車30両と火砲50~60門の集中砲火で日本軍陣地を次々に突破。日本軍側は夜襲などで戦車十数両を破壊するなど応戦するが、15日も8時間連続の砲撃を受けて師団の砲兵部隊がほぼ壊滅し、正面を守る歩兵部隊も戦車に蹂躙(じゅうりん)された。
 「かくて敵戦車十五両は師団戦闘司令所直前に現出す」と、作戦記録は書く。万事休すだ。
 この時、輸送などを主任務とする輜重(しちょう)兵が戦車に突撃した。
 「我輜重隊の肉攻班長以下五名は十五キロ爆弾を抱き、各人先頭に前進せし五両の戦車を攻撃す。突入と同時見事爆発し同時五両の戦車を完全に破壊せり。この情況を目撃せし後続戦車は急遽(きゅうきょ)退却し、追随せし敵歩兵もまた潰走(かいそう)せり」
 こうした日本軍の“肉弾攻撃”は各地で展開され、ソ連軍を戦慄させた。第126師団の捕虜となったソ連軍将校は、こう語っている。
 「日本軍特攻隊が我が戦車の接近するや、むっくり起き上がり爆弾と共に戦車に突入し自爆する状態は、ソ連人の到底実行しえざることなり」
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 だが、第一線部隊が壮絶な戦闘を続ける中、関東軍総司令部は非情な決断を下す。
 9日未明のソ連軍侵攻を、関東軍総司令官の山田乙三は出張先の大連で知った。急ぎ用意された偵察機に搭乗し、首都新京の総司令部に着いたのは同日午後1時ごろ。ソ連軍侵攻の一報から半日が過ぎていた。
 山田は、総参謀長の秦彦三郎から報告を受けると、直ちに宮内府に赴き皇帝溥儀(ふぎ)に拝謁した。
 「陛下、総司令部は近日中に、朝鮮との国境近くの通化(現中国吉林省通化市)に転進いたします。陛下と陛下の政府も、安全のため、通化に近い臨江に遷都されますよう、お願い申し上げます」
 満洲の面積は約120万平方キロメートル、現在の日本の国土の3倍に及ぶ。実質8個師団程度にまで戦力が低下していた関東軍ではとても支えられない。早々に朝鮮国境付近に撤退し、通化と臨江を中心とする領域で持久戦を展開しようというのは、事前に大本営とも打ち合わせていた既定方針だった。
 これに愕然(がくぜん)としたのは、皇帝溥儀とその側近たちである。無敵といわれた関東軍が張り子の虎と化していたことを、溥儀は知らされていなかった。
 山田が辞去した後、満洲国政府内では、後方への遷都案に激しい反発が起こった。満系の張景恵国務総理(首相)と日系の武部六蔵総務長官は、国民とともに首都新京に留まるべきだと主張したが、ソ連軍が急速に新京に迫る中、溥儀に選択肢はなかった。
 13日午後、溥儀と皇后を乗せた特別列車が、臨江近郊の大栗子(だいりっし)駅に到着した。近くに鉱業所の社宅などがあるだけの、寒村である。
 その鉱業所長宅が溥儀の“宮廷”となった。溥儀は自伝に、大栗子の印象を「(風光明媚〈めいび〉だが)すべてが私の目には灰色だった」と書いている。
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 もっとも、在留邦人の避難すら進まない中で、軍が撤退することを潔しとしない空気は関東軍内部にもあった。
 満洲西部を守る第3方面軍司令官の後宮(うしろく)淳は、総司令部の意図に反してソ連軍の進撃路に方面軍の全力を集中させ、全滅覚悟で邦人避難の時間をかせぐ決断をいったんは下す。しかし、却って満洲の崩壊を早めると作戦参謀らに説得され、前方決戦案を断念せざるをえなかった。
 当時、満洲の在留邦人はおよそ155万人。その命運は、もはや風前のともしびと言っていいだろう。そんな中、東京の政府と軍部はいったい何をしていたのか。
 実は、ポツダム宣言受諾の聖断が下された後、すべてを振り出しに戻しかねない深刻な事態が起きていた-。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)
【参考・引用文献】
○防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 関東軍(二)関特演・終戦時の対ソ戦』(朝雲新聞社)
○復員局『対蘇作戦記録』2巻および同巻所収の「第一二六師団の作戦」
○復員局『日ソ開戦時第一二六師団の戦闘』および同記録所収の「ソ連将校の言」
○愛新覚羅溥儀『わが半生 満州国皇帝の自伝』下巻(大安)
愛新覚羅溥儀 清朝最後の皇帝。1906年に北京で生まれ、2歳で清国第12代皇帝(宣統帝)に即位した。しかし辛亥革命により12年に退位。24年には紫禁城からも追われた。以後、天津の日本租界で暮らしていたが、日本軍の要請を受けて32年に満洲国執政となり、34年に満洲国皇帝に即位した。日本の敗戦後はソ連軍の捕虜となり、中国の戦犯管理所に収監。59年に釈放後、北京植物園の庭師などを務めた。67年に死去、波乱に満ちた61年の生涯を終えた。