【昭和天皇の87年】玉音放送を謀略と判断 壮絶な死闘の末、要塞は静寂に包まれた - 産経ニュース

【昭和天皇の87年】玉音放送を謀略と判断 壮絶な死闘の末、要塞は静寂に包まれた

画=筑紫直弘
関東軍最後の戦い(3)
 昭和20年8月9日未明にソ連軍が満ソ国境の虎頭要塞を急襲した際、守備隊長の西脇武大佐は作戦主任参謀らを連れ、牡丹江(ぼたんこう・現中国黒竜江省牡丹江市)の第5軍司令部に出張中だった。
 この西脇が要塞にいれば、戦況は違った展開をたどっただろう。和歌山藩剣術指南役の家柄に生まれた武人で、部下からの信頼が厚かったと伝えられる。
 第5軍司令部でソ連軍侵攻を知った西脇は9日午前、偵察機を手配して虎頭に近い東安飛行場まで戻り、そこから守備隊に復帰しようと八方手を尽くしたが、すでに要塞はソ連軍の重包囲下にあり、果たせなかった。
 西脇はその後、東安の第135師団司令部とともに行動せよとの命令を受け、17日、要塞より早く停戦する。まだ部下が戦っているのにと、やり切れない思いだったのではないか。
 戦後は中国共産党から指揮能力を高く買われ、戦術指導役として八路軍に加わるよう再三要請されたが、西脇は首を縦に振らなかった。断ればどんな運命が待ち構えているかを知らなかったわけではあるまい。23年10月31日、西脇は八路軍兵士に連行され、そのまま消息を絶った。
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 話を戦況に戻そう。
 20年8月15日正午、西脇不在の虎頭要塞は、高度に機械化されたソ連軍2万人の完全包囲下にあった。第5軍司令部との通信は途絶し、戦闘を続ける将兵に終戦の玉音放送は伝わっていない。
 17日、ソ連軍の捕虜となった日本人5人が白旗を掲げて猛虎山の主陣地に訪れた。終戦を伝え、降伏するよう勧告したのである。
 だが、守備隊幹部は玉音放送を謀略と判断。5人のうち1人を斬殺し、4人を追い返した。守備隊長がいないため、冷静な判断力を欠いていたのだろう。
 降伏勧告を拒絶されたソ連軍は18日、ロケット弾を連続発射するカチューシャ砲などを使ってさらなる猛攻を仕掛けてきた。
 要塞の守備隊は、残っていた15センチ加農(カノン)砲に火薬だけを詰めて発射する「薬筒射撃」でソ連軍部隊の波状攻撃を撃退。要塞の周囲は「敵の死体でうずもれるほどであった」と、守備隊兵士が書き残している。
 しかし、それが限界だった。
 「明けて十九日はソ軍の先制攻撃に見舞われた。昨日大活躍した十五加(15センチ加農砲)に対し報復が行われた。イマン飛行場を飛び立った小型機が、上空に飛来し次々と爆弾を落していく。そのうちに大型戦車が前後からやってき、(中略)十五加の砲門孔などに徹底的破壊攻撃を行ったうえ、狙撃兵が入口付近に殺到して友軍との間に手榴弾(しゅりゅうだん)戦が展開される。薬筒射撃を続行したが、もう昨日ほど敵は慌てなくなった」…
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 いまや守備隊は要塞の出入口を固めて中に立てこもるしかなく、ソ連軍は外からガソリンを流し込んであぶり出しにかかった。
 守備隊長代理の砲兵隊長、大木正大尉は、最期のときと覚悟を決めたようである。19日夜、主陣地に爆薬を仕掛け、約300人の避難邦人もろとも自爆した。
 主陣地近くの砲塔陣地でソ連軍の猛攻をしのいでいた砲兵第2中隊も19日の戦闘で壊滅的打撃を受け、中隊長の川崎巌中尉が上半身やけどの重傷を負った。川崎は要塞の戦況を上級部隊に伝えようと、残存兵力をまとめて21日に陣地を脱出。自身のやけどのため部下の足手まといになることを気遣いながら、最後は単身、ソ連軍のいる方向へ走り去った。
 主陣地西方の虎嘯(こしょう)山陣地を守備する歩兵第2中隊は26日まで戦い続け、生き残りの約30人がソ連軍部隊に向けて最後の突撃を敢行、玉砕した。
 ここに虎頭要塞は、ついに陥落したのである。
 翌27日、それまで途切れることのなかった砲声がピタリとやみ、要塞周辺は深い静寂に包まれた。
 第15国境守備隊約1400人のうち生存者は約60人。このほか平頂山陣地に避難していた在留邦人約150人が脱出したが、29日以降に遭遇したソ連軍の無差別攻撃を受け、大多数が死亡したと伝えられる-。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)
【参考・引用文献】
○防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 関東軍(二)関特演・終戦時の対ソ戦』(朝雲新聞社)
○平田文市編『ソ満国境 虎頭要塞の戦記』(全国虎頭会事務局)
八路軍 中国共産党直系の国民革命軍第八路軍の略称で、中国人民解放軍の前身のひとつ。華北方面で活動し、日中戦争(支那事変)ではゲリラ的に日本軍の輸送部隊や小部隊を攻撃した。1940(昭和15)年には日本軍と満州国軍を相手に大攻勢(百団大戦)を仕掛け、結果的に撃退されたものの、日本軍側から弱兵とみられていたそれまでの評価を改めさせたとされる。日本の敗戦後はソ連軍から武器(関東軍からの摂取品)の供与を受けたほか、関東軍将兵らも取り込んで戦力が飛躍的に増強。国共内戦で勝利する原動力となった
生存者の逃避行 虎頭要塞で守備隊に保護された在留邦人のうち、平頂山陣地を脱出した約150人の逃避行は過酷を極めた。ソ連軍に見つかれば無差別で殺戮されるため、在留邦人は日本兵と行動することをのぞみ、協議の末、泣き声などで発見されやすい乳幼児28人が日本兵自身の手で殺害されたという。逃避行は1カ月におよび、生存者はわずか41人(男3人、女38人)。20人ほどいた日本兵は全員が戦死もしくは行方不明となった。一方、上半身やけどの川崎巌中尉が指揮する砲兵第2中隊は、下士官兵12人が生還した。ただし川崎自身は脱出行動中、やけどの傷口が悪化するなどしたため「おれにかまわず先に行ってくれ」と言い、負傷した両腕をつったままソ連軍の方へ去っていった。部下を救おうと自決的行動に及んだとみられる。