【昭和天皇の87年】要塞を死守せよ! 関東軍の決死の反撃、ソ連軍は大混乱に陥った - 産経ニュース

【昭和天皇の87年】要塞を死守せよ! 関東軍の決死の反撃、ソ連軍は大混乱に陥った

画=筑紫直弘
関東軍最後の戦い(2)
 虎頭要塞から発射された15センチ加農(カノン)砲の砲弾が次々に満ソ国境のウスリー河を越え、対岸のソ連軍陣地で炸裂(さくれつ)する。41センチ榴弾(りゅうだん)砲は20キロ離れたシベリア鉄道の関連施設を粉砕。30センチ榴弾砲も火を噴き、対岸のトーチカなどを破壊した。
 突然のソ連侵攻からおよそ半日が過ぎた昭和20年8月9日午前11時、満州東部の要衝で、関東軍が反撃に転じたのだ。高度に機械化された敵の大軍に対し、要塞に立てこもる関東軍の第15国境守備隊は、兵力寡少ながら士気も練度も高かった。
 猛虎山の主陣地で敵情捜索にあたった監視隊員の戦闘記録によれば、要塞の重砲はソ連軍に一泡も二泡もふかせたようだ。
 とくに41センチ榴弾砲の威力はすさまじく、ウスリー河にかかるイマン鉄橋に命中、極東ソ連軍の生命線ともいえるシベリア鉄道を一時不通にした。
 同日未明の5時間にわたるソ連軍の先制砲撃で要塞周辺の山肌は深く削り取られたが、地下に構築された鉄筋コンクリートの陣地は、健在だったのである。
 思わぬ反撃に、ソ連軍陣地は大混乱に陥った。
× × ×
 守備隊は夜になると、斬り込み攻撃を敢行した。要塞の各陣地から小部隊が飛び出し、近くまで浸透していたソ連軍の狙撃部隊を襲撃、爆弾を抱えた兵士が戦車に体当たりして擱座(かくざ)させた。
 一方、ソ連軍は明くる10日に爆撃機を投入、上空と地上から猛烈な砲爆撃を加えた上で、11日午後6時、圧倒的な火力を背に狙撃部隊が総攻撃を仕掛けてきた。これに対し守備隊は決死の斬り込み攻撃で応じ、戦力がはるかに上回るソ連軍を撃退した。
 13日には、要塞を見下ろす高所にソ連軍が続々と進出、奪還をはかる守備隊との間で激しい白兵戦が展開された。守備隊陣地の一つ、臨江台をめぐる戦闘の様子を、前出の監視隊員がこう書き残している。
 「敵が小臨江台の一番高い所を狙って攻撃し、これを占領して赤旗を掲げると、(守備隊の)小隊は下の方から攻め上りこれを奪回する。幾度となくこのような攻防戦が繰り返された。(中略)十三日夕刻、例によって薄井見習士官は抜刀指揮して逆襲を敢行し、陣地頂上に駆け上ったところを、敵の手榴弾(しゅりゅうだん)が命中しついに倒れた。彼は文字どおり七生報国の念願を果たし、弱冠二十二才にして臨江台の土と化した」
 圧倒的な火力をもって次々に攻め寄せるソ連軍に対し、何度も、何度も立ち上がる守備隊将兵-。
 腹部に銃弾を受け、要塞の仮包帯所に運び込まれた砲兵隊中尉は天に叫んだ。
 「おれは死なないぞ、もう一度やる」
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 戦っているのは、将兵だけではなかった。
 ソ連侵攻の9日以降、猛虎山陣地には約300人の、平頂山陣地には約150人の在留邦人が避難しており、婦女子を含め率先して負傷兵の看護、弾薬の搬送、炊事などに従事した。
 速射砲中隊所属の兵士がつづった戦記によれば、要塞外の作業で「敵が襲撃して来たらどうするか」と話し合っていた兵士らを、看護婦のひとりが「そのときは突っ込めばよい」と叱咤(しった)激励したという。
 だが、所詮は多勢に無勢である。ソ連軍が無尽蔵ともいえる兵力を投入してくるのに対し、孤立無援の守備隊は補給の手段がなく、戦力は日増しに激減した。
 やがて虎頭要塞は、壮絶な最期を迎えることになる-。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)
【参考・引用文献】
○防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 関東軍(二)関特演・終戦時の対ソ戦』(朝雲新聞社)
○平田文市編『ソ満国境 虎頭要塞の戦記』(全国虎頭会事務局)
加農(カノン)砲と榴弾砲 カノン砲は長い砲身が特徴で、高初速の砲弾を水平に近い弾道で発射し、主に遠距離の目標物を直接狙って破壊する。一方、榴弾砲は砲身が短く、山なりの弾道で敵陣地などを攻撃する。山地などの遮蔽物で目標を直接狙えない場合に威力を発揮し、敵の歩兵や輸送車などを制圧する間接射撃に有効である。ただし第二次世界大戦以降、長砲身の榴弾砲が出現し、カノン砲との区別は事実上なくなっている。