【野口裕之の軍事情勢】戦後最大のスパイ事件取材と在英亡命諜報機関員暗殺で見た露毒殺史    - 産経ニュース

【野口裕之の軍事情勢】戦後最大のスパイ事件取材と在英亡命諜報機関員暗殺で見た露毒殺史   

3月18日、モスクワ中心部の広場で開かれた集会で演説するロシアのプーチン大統領(ロイター=共同)
ロシアの元情報機関員、セルゲイ・スクリパリ氏=2006年8月、モスクワ(ロシアの軍事裁判所提供、タス=共同)
ロシアの元情報機関員、セルゲイ・スクリパリ氏の娘、ユリアさんとみられる写真(フェイスブックから、AP=共同)
2006年、「ポロニウム210」で暗殺されたロシア諜報機関・連邦保安庁(FSB)元中佐のアレクサンドル・リトビネンコ氏(AP)
モスクワの「無名戦士の墓」での式典に出席したロシアのプーチン大統領(中央)=2月23日(AP=共同)
 英国南部で亡命者として暮らしていたロシア諜報機関・連邦軍参謀本部情報総局(GRU)のセルゲイ・スクリパリ元大佐と娘のユリアさんが神経剤《ノビチョク》で襲撃されたが、四半世紀近く前に取材した忌まわしい事件が筆者の脳裏に忽然とよみがえった。
 英政府は、ロシア諜報機関が直接関与したか、ノビチョクをずさんに管理し暗殺者の手に渡ったかのいずれかだと断定した。ノビチョクは「高度な施設と専門知識を持つ国家でなければ製造できない」(英国連次席大使)化学兵器で、ソ連は1970~80年代に開発、受け継いだロシアが秘匿する。
 だが、筆者が1995年に追跡した同種の事件には状況証拠すらなかった。日本の戦後最大のスパイ事件が発覚した後、19年も経過して突然死を遂げる元外務省調査員の名前は、産経新聞の連載《戦後史開封》を担当した際入手した600ページにのぼる《部外秘》の捜査関係資料にあった。
 身辺調査や尾行結果、供述内容がびっしりと収まった資料は、冷戦中のソ連諜報機関の凄味を凝縮した《ラストボロフ事件》であぶり出された日本人スパイ36人を網羅していた。とりわけ印象深く、謎めいた人物が元外務省アジア局第2課調査員の室井正三(仮名)だった。
「ラストボロフ事件」の闇
 室井は1954(昭和29)年2月5日に警視庁に自首。ソ連の2等書記官を装う内務省諜報機関員ユーリ・ラストボロフ中佐=当時(33)=に「米軍極東情報部地理課員時代の51年以来、約40回にわたり情報提供した」と自供した。情報は「朝鮮戦争の休戦交渉決裂の場合、米軍は中国の本土爆撃と海上封鎖を実行」「沖縄には戦術核が到着」などを含んでいた。報酬は計68万5千円。米軍での月給が手取り2万5千~3万円、外務省の手取りが1万5千円だった頃である。
 室井を追ったが、既に死亡していた。妻=当時(65)=や関係者を説得し、捜査関係資料の内容を確認・捕捉した。「闇の世界」は小説の中だけではなかった。
 第一幕《1954年2月3日夜7時半、都内のアパートで節分の豆まきを終えた室井は窓を閉める際、電柱の陰に口笛を吹く人影を見た。妻に『たばこを買いに行く』と言って出た。捜査関係資料では『たばこ』が『仁丹』だったが、妻は『たばこは買い置きがあったのでいぶかった』ことを覚えており、室井の記憶違いかもしれない。肩をたたかれた室井が振り向くと、中国人風の男が『自殺しろ』と、低いロシア語でささやき、走り去った。2日前、在日ソ連代表部(大使館に相当)が『ラストボロフは挑発目的の米国諜報機関に拉致された(実は亡命)』と発表していて、口封じで『消される』と直感した》
 第二幕《妻は回想する。『翌日夜10時、真っ青の顔の主人に打ち明けられ愕然とした。バッグに下着や預金通帳を詰め、住人に悟られぬよう素足で階段を降り、上野の旅館に隠れた。4回目の結婚記念日だったが一晩中、逃亡か自首かを話し合った』》
 第三幕《室井は事件後4回、居所を変え反省したかに見えたが、日本の公安組織も甘くはない。1963年6月19日以降、ソ連側との接触を確認している。前後して、室井は石油開発会社の常務となる。『数日日本で、30~40日をソ連で過ごすハードな生活の繰り返しだった』と妻。自民党親ソ派大物代議士や経済人の推薦を受け、ソ連での石油開発を手掛けていたのだ》
19年後の謎の死
 終幕《1973年3月、室井はモスクワ行き民間航空機内で不可解な死を遂げる。乗り合わせた新婚旅行中の医師は取材当時、大学教授になっていたが、記憶は鮮明だった。
 『脈がなく呼吸停止、瞳孔が開いていた。東京監察医務院の判定からはクモ膜下出血や脳内出血の症状。発作後数分だった。皮膚が紫がかるチアノーゼが診られたので、嘔吐に因る窒息や超劇症型の可能性がゼロではないが、一般的には死の兆候が早過ぎる』
 教授は『死ぬ1時間前に「薬を飲み間違えた」と周りに語っており、すっきりしない一件だった』と、筆者に対し毒殺を否定しなかった》
「暗殺公認法」を成立させたロシア
 ロシアの石油は近年、露諜報機関やマフィアが牛耳る「危ない利権」だが、70年代のソ連にとっては石油不足に悩む西側への外交カードだった。安全保障では同盟する日米が、石油獲得ではソ連にすり寄り対立する「さらに危ない利権」だった。その最前線で室井はソ連コネクションを駆使、石油獲得を狙い失敗した。
 米国諜報機関の犯行とも推定できるが、ソ連の毒殺史も年季が入っている。
 米国は第二次世界大戦中、末期がん患者の1人に猛毒の放射性物質「ポロニウム210」を水に溶かして与え、4人に注射し、6日間生きた1人を除き微小な投与で短時間で死亡させた。核爆弾開発《マンハッタン計画》に携わる関係者の生命に関する影響を検証する人体実験とみられる。
 ソ連も1920年代に「毒物研究所=第12号研究室やラボXの別称アリ」を創設。ドイツ軍捕虜にポロニウム210を服用させる人体実験を行ったようだ。
 ポロニウム210は2006年、元ロシア諜報機関・連邦保安庁(FSB)中佐のアレクサンドル・リトビネンコ氏=当時(43)、英国籍=の暗殺に使われた。リトビネンコ氏はポロニウム210が混入されたお茶を飲み、命を奪われた。
 英国・独立調査委員会が2016年1月に公表した報告書は、暗殺の手口やウラジミール・プーチン大統領が関与していた可能性を指摘している。暗殺の動機は、プーチン氏が政権を掌握する契機となった1999年のアパート爆破事件がFSBの自作自演だった事実をリトビネンコ氏が暴露したためという。
 ポロニウム210はウランの330倍強い放射線を出し、1グラムの摂食・吸引で1千万~1億人を殺戮できる。当然、リトビネンコ氏の内臓はズタズタだった。「見せしめ」にはもってこいの、人間の所業とも思えぬ残酷さではないか。
 ソ連=ロシアの「毒殺史」に触れるとき、近衛文麿・元首相(1891~1945年)の長男・文隆氏(1915~56年)の最期も国民の心と脳裏に刻んでおかなければならない。 
 文隆氏は満州で終戦を迎え、捕虜となった。シベリアで15カ所もの収容所を移動させられた揚げ句、1956(昭和31)年に死去。遺骨だけが58(同33)年になって帰国した。
 ソ連側公表の「動脈硬化を発端とする脳出血と急性腎炎」は信じ難い。戦後11年もの間、過酷な抑留・拷問に耐え、協力者要請を拒絶した貴公子が敗戦・占領で虚脱した日本の指導者に迎えられる→生気を取り戻した日本に、ソ連収容所の表裏を知り尽くす首相が誕生…。こうした構図はソ連にとり最悪だった。「一服盛った」との有力観測は、この辺りより浮上する。
 ところで、ロシア議会は2006年、反露分子やテロリストの暗殺を認める法律を通過させた。半年もしない内にリトビネンコ氏は暗殺された。もっとも、通過前にもロシアやソ連が絡む毒殺事件は少なくなく、法律など無用だっただろう。