軍部を叱責した天皇 かくて最初の聖断は下された

昭和天皇の87年
画=筑紫直弘

大日本帝国最後の一週間(6)

 昭和20年8月10日午前2時過ぎ《(昭和天皇は)議長の首相より聖断を仰ぎたき旨の奏請を受けられる。天皇は、外務大臣案を採用され、その理由として、従来勝利獲得の自信ありと聞くも、計画と実行が一致しないこと、防備並びに兵器の不足の現状に鑑(かんが)みれば、機械力を誇る米英軍に対する勝利の見込みはないことを挙げられる。ついで、股肱(ここう)の軍人から武器を取り上げ、臣下を戦争責任者として引き渡すことは忍びなきも、大局上三国干渉時の明治天皇の御決断の例に倣い、人民を破局より救い、世界人類の幸福のために外務大臣案にてポツダム宣言を受諾することを決心した旨を仰せになる》(昭和天皇実録34巻34頁)

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 聖断は下った。御前会議の出席者は静かに起立し、退席する昭和天皇を見送った。

 この時の様子を、内閣書記官長として陪席した迫水(さこみず)久常が、こう述懐する。

 「何という畏(おそ)れ多いことであろう。御言葉の要旨は我が国力の現状、列国の情勢を顧みるときは、これ以上戦争を継続することは日本国を滅亡せしむるのみならず、世界人類を一層不幸に陥れるものなるがゆえに、この際堪え難きを堪え、忍び難きを忍んで、戦争を終結せんとするものであるという主旨であった。(中略)この御聖断によって会議は結論に到達した。真(まこと)に未曾有(みぞう)の事である。一同陛下の入御を御見送り申し上げ、粛然として満感を胸に退出した」

 一方、外相案に反対であった軍令部総長の豊田副武(そえむ)は、こう書き残している。

 「(昭和天皇から)最後まで本土決戦とか戦争継続とかいうけれども、戦備は一体出来上がっているのかという御詰問があって、陸軍の九十九里浜の新配備兵団の装備が、六月頃には完成するという話だったが一つも出来ていないじゃないかという強い御叱(しか)りもあった。御聖断に対しては何人も奉答する者なく御前会議は十日午前二時半終了して諸事唯(ただ)聖旨を奉じて取り運ぶこととなった」

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 御前会議後の10日午前3時、臨時閣議開催。聖断に従い、国体護持のみを条件にポツダム宣言の受諾を正式決定する。外務省はただちに電文作成に取りかかり、6時間後の午前9時、中立国のスイスを通じてアメリカと中国に、またスウェーデンを通じてイギリスとソ連に、以下の緊急電報が発せられた。

 「帝国政府は天皇陛下の平和に対する御祈念に基き即時戦争の惨禍を除き平和を招来せんことを欲し左の通り決定せり。帝国政府は対本邦共同宣言(ポツダム宣言)に挙げられたる条件中には天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に右宣言を受諾す……」

 一方、そのころ満洲では、当初の混乱から抜け出した関東軍が、ソ連の大軍を相手に壮絶な防衛戦を繰り広げていた-。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

【参考・引用文献】

○宮内庁編『昭和天皇実録』34巻

◯外務省編『終戦史録』(官公庁資料編纂会)

○迫水久常「降伏時の真相」(『終戦史録』所収)

○「豊田手記」(同)

○在スイス公使及び在スエーデン公使間往復電報(同)

三国干渉時の明治天皇の御決断 1894~95(明治27~28)年の日清戦争で勝利した日本は、清国との講和条約により遼東半島の割譲を受けたが、これに反発するロシアが領有を放棄するよう日本に勧告。ドイツとフランスも追随した。日本は御前会議を開いて対応を協議し、イギリスなどに働きかけて3国の干渉を排除しようとしたが、武力を誇示するロシアの圧力に抗しきれず、遼東半島の返還を決定。明治天皇が詔勅で国民に告げた。その後ロシアは、日本が放棄した遼東半島先端の旅順を租借地とし、中国東北部(満州)へ勢力を広げた。日本の世論は激高し、「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」をスローガンに、ロシアに対抗できる国力の増強が進められた。