【昭和天皇の87年】運命の御前会議開催へ 「陛下は非常な御決心でおられる」 - 産経ニュース

【昭和天皇の87年】運命の御前会議開催へ 「陛下は非常な御決心でおられる」

画=筑紫直弘
大日本帝国最後の一週間(4)
 昭和20年8月9日午後10時55分《(昭和天皇は)内閣総理大臣鈴木貫太郎・外務大臣東郷茂徳に謁(えつ)を賜(たま)う。外相より、現在までのポツダム宣言の受諾条件をめぐる議事の経緯につき説明を御聴取になる。また首相より、最高戦争指導会議への親臨(天皇臨席)につき奏請を受けられる。両名退下後の十一時二十分、最高戦争指導会議への親臨に関する内閣上奏書類を御裁可になる》(昭和天皇実録34巻33頁)
 戦争の即時終結に向け、天皇臨席の最高戦争指導会議、すなわち御前会議の開催を求める首相と外相--。『昭和天皇実録』には記されていないが、このとき昭和天皇は、聖断を下す決心でいたようだ。
 重光葵(まもる)元外相の手記「鐘漏(しょうろう)閣記」に、昭和天皇の決心の一端がうかがえる。
 首相らが拝謁する前の9日午後4時、重光は木戸幸一内大臣に面会を求め、ポツダム宣言に国体護持以外の受諾条件をつけないよう、「此際(このさい)は天皇御勅裁(聖断)の必要なこと」を申し入れた。
 これに対し木戸は、「君らは何でもかんでも、勅裁、勅裁といって、陛下に御迷惑をかけようとする。いったい政府や外務省は何をしているのか」と非常に不機嫌であったという。
 だがその後、重光の説得を受けて昭和天皇に拝謁した木戸は、再び重光に会い、喜色を浮かべて言った。
 「陛下は万事よく御了解で非常な御決心でおられる。君らは心配はない。それで今夜ただちに御前会議を開いて、御前で意見を吐き、勅裁を仰いで決定するように内閣側で手続きをとるようにしようではないか」
 昭和天皇の「非常な御決心」は、木戸と重光によって終戦派の首相、外相、重臣らに内々に伝えられ、ひそかに御前会議の準備が進められた。誰もが聖断にすがりたい一心だったのだ。
 重光は木戸に言った。
 「自分らが内閣や外務省に働きかけても限界がある。軍部の意向を覆すことが出来ぬからだ。これを覆すのは勅裁に頼るほか道はない。もはや最後の土壇場にきている。政府内閣の出来ないところを陛下に御願いして日本の運命を切りひらいていただきたいのだ」
× × ×
 こうして、終戦派が期待する天皇臨席の最高戦争指導会議が、皇居の御文庫附属室で開催される運びとなった。のちに第1回御前会議と呼ばれる、日本の運命を決めた会議である。
 ただし安心はできない。終戦派にとってネックは、御前会議の構成員だった。ポツダム宣言の即時受諾を求める外相案に、大半の閣僚は賛同しているが、彼らは御前会議に出られず、かわりに、外相案に反対する陸海両総長が出席するからだ。
 御前会議の構成員は鈴木貫太郎首相、東郷茂徳外相、阿南惟幾(これちか)陸相、米内光政海相、梅津美治郎参謀総長、豊田副武(そえむ)軍令部総長の6人。このうち鈴木、東郷、米内が終戦派。阿南、梅津、豊田が抗戦派で、賛否が拮抗(きっこう)している。しかも議長役の鈴木は自分の意見を言いにくい立場だ。
 このため鈴木は、勅許を得て枢密院議長の平沼騏一郎を出席者に加えた。平沼が外相案を支持するだろうと、見込んでいたのだろう。
 だが、平沼は「観念右翼の巨頭」と評されており、土壇場で不支持に転じないともかぎらない。
 「多数決なら今日勝てる見込みがあるか? 平沼男(爵)は危ないぞ」
 海軍首脳でありながら終戦派の米内が、内閣書記官長の迫水(さこみず)久常に不安を漏らした。もしも御前会議で平沼が外相案に反対すれば、反対票が賛成票を上回り、昭和天皇が聖断を下しにくくなる。
 果たして御前会議では、この平沼が重要な役割を果たすことになるのだが……。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)
【参考・引用文献】
○宮内庁編『昭和天皇実録』34巻
◯外務省編『終戦史録』(官公庁資料編纂会)
○伊藤隆、渡邊行男編『重光葵手記』(中央公論社)所収の「鐘漏閣記」
○下村海南『終戦秘史』(大日本雄弁会講談社)
御前会議 天皇臨席のもとで開かれる元老、主要閣僚、軍部首脳らの合同会議。国家の重大事に際し、最高国策を事実上決定した。ただし天皇の諮問機関である枢密院会議を除き、天皇の臨席は法制上定められておらず、御前会議で決まった方針は直後の閣議などで正式決定した。また、天皇に政治責任を負わせないため、天皇自身が発言することはほとんどなく、天皇の意思の表明、すなわち聖断が下されることは異例中の異例だった