民族に染まった平昌五輪 金与正氏は「感性独裁」の主導者

久保田るり子の朝鮮半島ウオッチ
平壌で朝鮮人民軍最高司令部の「休戦協定白紙化」の声明を発表する金英哲偵察総局長=2013年3月(朝鮮中央通信=朝鮮通信)

 北朝鮮がまた攻勢に出た。平昌五輪閉会式に軍の実力者で工作機関の責任者だった大物、金英哲(キム・ヨンチョル)氏を代表とする高官団を送り込む。開会式に次いで平昌五輪は北朝鮮の韓国取り込みに利用されることになった。注目を集めた女性応援団は北朝鮮独特の情緒洗脳のプロたちだった。北朝鮮専門家が「感性独裁」と呼ぶ手法で人間の感情を操る精鋭たちだ。これを主導するのは、金正恩(ジョンウン)朝鮮労働党委員長の妹、金与正(ヨジョン)氏が責任者を務める党宣伝宣伝扇動部だ。韓国は懐柔されたのか。韓国世論の7割以上が南北首脳会談の開催に賛成している。(※2月24日の記事を再掲載しています)

「統一を成し遂げるために来ました」

 ここまでの北朝鮮の微笑外交を担ったのはほとんどが北朝鮮女性たち。訪韓団約450人の8割を女性が占めた。25日の閉会式でも笑顔を振りまくだろう。

 彼女たちが所属するのが党宣伝扇動部。責任者の部長が金与正氏で、副部長は五輪に合わせてソウルなどで公演した「三池淵(サムジヨン)管弦楽団」団長の玄松月(ヒョン・ソンウォル)氏である。党宣伝扇動部長は金正日氏も長く務めた要職で、同部は北朝鮮の「絶対権力機関」と呼ばれる独裁の主管部署だ。

 北朝鮮では1948年の建国以来、金一族を崇拝させるための洗脳統制にあらゆる手段が使われてきた。韓国の北朝鮮専門家はこれを、軍事独裁と並ぶ「感性独裁」と呼ぶ。映画や音楽、詩や小説、絵画などで人間の感情を操る心理統治のため、北朝鮮では専属詩人や作家、俳優、歌手などが育成されている。

 平昌五輪に派遣された女性応援団はそのプロたち。キーワードは「統一」だった。メディアの問いかけにも堂々と答え、応援では必ず「祖国統一」「私たちはひとつ」と叫んだ。

 管弦楽団の進化もめざましく、公演では「韓国版・美空ひばり」の異名を取るパティ・キムのヒット曲「離別」をはじめ「愛の迷路」「男は船、女は港」「道程」「Jへ」などの流行歌を披露し韓国人を熱狂させた。

 2015年の中国公演で金正恩賛歌の変更を求められた北朝鮮の「牡丹峰(モランボン)楽団」は、玄松月団長が「助詞ひとつたりとも歌詞を変えない」と公演をキャンセルして帰国した。だが今回は、曲名や歌詞を韓国向けに変更するサービスまでしてみせて、「同胞のみなさん、兄弟のみなさん、会えてうれしいです!」 と盛り上げた。

 圧巻は玄松月団長が歌った「白頭(ペクトゥ)と漢拏(ハルラ)は私の祖国」だ。白頭とは北朝鮮の聖地、白頭山のこと、漢拏とは韓国・済州島の名山、漢拏山のことで、ここでも「統一」を強調し、韓国人のロマンをかき立てたようだ。

「凍てついた心を文化が溶かす」

 北朝鮮側の「平和攻勢」に対し、韓国保守派は反対デモで警戒感を示し、若者の一部は違和感をみせたものの、メディアが強く批判することはなかった。韓国政府は政府予算28億6000万ウォン(約2億8000万円)を支出した。今回、韓国が陸、海、空路を開けてしまった南北交通を、パラリンピック後に再閉鎖するかは不透明だ。

 そうしたなか、韓国の文在寅(ムン・ジェイン)政権に近い政界からは五輪に続く南北スポーツ交流のアイデアが続出している。代表的なのは文大統領の側近として知られる朴元淳(パク・ウォンスン)ソウル市長で、朴市長は「ソウル-平壌サッカーの復活」を提案している。

 「ソウル-平壌サッカー」は朝鮮半島の日本統治時代の1929年に始まり、46年まで続いた親善試合だった。朴市長はかねてからこの復活を主張。これに呼応するように、五輪開会式出席のため訪韓した北朝鮮の金永南(ヨンナム)・最高人民会議常任委員長も韓国の李洛淵(イ・ナギョン)首相に「ソウル-平壌サッカーの再開」を持ちかけたとされる。

 このほかにも、平昌五輪の開催地、江原道(道は日本の県に相当)の崔文洵(チェ・ムンスン)知事が2021年の冬季アジア大会を北朝鮮と共催することを提案するなど、進歩派陣営ではまるで北朝鮮の核・ミサイル開発の脅威は消失したかのような雰囲気だ。進歩派の有力紙「ハンギョレ」は「南北、文化スポーツ交流から活発化しよう」(社説)と主張し、「凍てついた心を文化が溶かす」などと書いている。

「北か、米国か」

 世界中が平昌五輪の南北対話を北朝鮮の戦術だと理解している。だが、当事国の韓国は違うようだ。

 いまのところ北朝鮮の思惑通りに進んでいる。韓国人は民族に酔い、金正恩氏は「五輪を契機に北と南の強烈な熱望と共通の意思が和解をもたらした」と歯の浮くセリフを発信している。

 北朝鮮をめぐっては最近、ペンス米副大統領が訪韓中だった今月10日に予定された米朝対話を北朝鮮が土壇場で拒否していたことが判明。今後はさらに、閉会式へ送り込む金英哲氏らを使って文政権に「北朝鮮か、米国か」を迫るだろう。

 時間は刻々と費やされ北朝鮮の核保有は徐々に既成事実化している。文大統領は金与正氏らと面談した2時間40分の間に一言も核問題に触れず、歓談でやり過ごした。金英哲氏は2010年の韓国哨戒艦撃沈事件などの首謀者とみられ韓国の独自制裁対象になっている人物である。韓国が閉会式後の南北会談を受け入れた時点で、この政治対話の主導権は北朝鮮に握られることになるだろう。(編集委員)