大相撲 貴乃花親方の「真の敵」は誰か 野々村直通

iRONNA発
日本相撲協会の臨時理事会に向かう貴乃花親方=昨年12月28日、東京都江東区(蔵賢斗撮影)

 「不倶戴天」。貴乃花親方の心中を察したとき、この言葉がふと思い浮かんだ。日本相撲協会の理事候補選挙で落選した親方は何と闘っていたのだろう。相撲道を追求する理念はもっともだが、それを阻む「真の敵」が誰か、どうも見えにくい。この騒動の核心を読む。(iRONNA)

 「我(われ)、いまだ木鶏(もっけい)たりえず」

 大横綱、双葉山が69連勝で敗れたときの言葉である。木鶏とは木彫りの鶏である。普段は落ち着きなく動き回る鶏が、何があっても微動だにしない様(さま)を木彫りに例えたものである。これは人として悟りを開いた境地を言う。

 双葉山はこの敗戦を自らの未熟さとして、この言葉で自戒したのである。何と見事な振る舞いであろうか。強さだけではなく、この崇高な精神性が双葉山を神格化せしめた。同じく昭和の大横綱、大鵬は戸田に敗れ、連勝記録が途絶えた。しかし、この敗戦は後に「世紀の大誤審」と呼ばれる一番だったのだが、大鵬は「横綱が物言いのつくような相撲を取ったことが恥ずかしい」と自らを責めた。大鵬もまた、高潔な精神を備えていたのである。

 相撲の取り口で理想とされるのは「後(ご)の先(せん)」と呼ばれる。相手より遅れて立って攻めさせる。しかし、その後の攻防で先に立つ。これが横綱相撲と呼ばれた。しっかり相手を受け止めてから自分のペースに持ち込む。決して立ち合いで逃げたり、先制攻撃をしたりはしない。それは弱者の戦法である。横綱相撲が取れなくなった横綱は引退する。ここに大相撲の横綱としての矜持(きょうじ)がある。

大相撲は神事

 大相撲は神事である。天皇の前で取り組む「天覧相撲」は最高の名誉でもある。その最高位に位置する横綱は「四手(しで)」を垂らした「注連縄(しめなわ)」を腰に巻く。神の化身である。どんな身分の者であろうと横綱になれば帯刀が許された。取り組む前には水で口を漱(すす)ぎ、塩を撒(ま)く。すべて神事にのっとって行われる儀式的格闘技である。

 今、相撲はインターナショナルなものになりつつあるが、それはあくまでも「SUMO」であって大相撲とは似て非なるものである。このことを強く認識し、本来の伝統を堅持しようと真剣に取り組んでいるのは、貴乃花親方の他にその存在を見いだすことはできない。その全身全霊を傾ける姿には感銘を受ける。

 彼は言う。「大相撲の紋章には桜があしらわれています。桜は日本人の心の象徴で『大和心』を意味しています。だから大和心の正直さ、謙虚さ、勇敢さでもって大相撲に命懸けで取り組まなければなりません」

傍若無人の横綱

 昨今の大相撲を取り巻く事件や醜聞が日本中を席巻している。マスコミはおもしろおかしく報道し、相撲協会と貴乃花親方との対立、不和をあおっている。しかし、私見ではあるが、これは貴乃花親方と相撲協会との確執ではなく、対白鵬に向けられた「追放儀式」と思えてならない。

 白鵬は、横綱の品格とは何かと問われ、「勝つことが品格だ」と答えている。最近では、敗れた直後の土俵で、実は「待った」だったと手を挙げて抗議し、土俵に上がろうとしなかった。千秋楽の優勝インタビューでは観衆に万歳三唱を強要する。このような下劣な言動は何なのか。まるで「傍若無人の独裁横綱」である。大相撲は日本国籍を有しないと親方にはなれない。しかし、彼はモンゴル籍のままで自分だけは親方になれる特例を求めていたという。やりたい放題である。

 大和民族は大自然と共生することを目的にそれを徳とし、この自然界のありとあらゆるものを神としてあがめ、拝み、その恵(めぐみ)に感謝し、貝塚を作り、その小さな生命(いのち)を頂いたことにも慰霊する。この気高き精神の輝きは、他の民族には理解できないのかもしれない。

 貴乃花親方が真に戦う相手は、相撲協会ではなく、その地位や名誉でもなく、ただ相撲道を汚す許し難い横綱に対してのものなのである。

 【プロフィル】野々村直通(ののむら・なおみち) 昭和26年生まれ。広島大教育学部卒。島根県の開星高校硬式野球部を監督として通算9回、甲子園へ導く。「末代までの恥」発言で辞任したが、その後嘆願の署名が集まり復帰。平成24年に定年退職し、現在は画家、教育評論家として活動している。著書に『やくざ監督と呼ばれて』(白夜書房)、共著に『にっぽん玉砕道』(産経新聞出版)など。

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