働き方改革 「長時間労働=悪」記者の仕事には合わない 向谷匡史

iRONNA発
神奈川・座間9遺体遺棄事件の取材をする報道陣。記者の働き方に「正解」はあるのか=平成29年11月1日(古厩正樹撮影)

 記者の現場にも「働き方改革」が押し寄せている。NHK女性記者の過労死は痛ましいが、世の中で起きる事象やネタは待ってくれない。そもそも相手があってこその仕事であり、時間など気にしていられないのも事実である。記者の働き方に「正解」はあるのか。(iRONNA)

 「働き方改革」は喫緊の課題として大いに進めるべきである。過労死があっていいはずがなく、電通女子社員、NHK女性記者と相次ぐ若い世代の過労死には、メディアを仕事の場とする一人として言葉もない。

 だが、「長時間労働=悪」という一律的、短絡的な考え方に、私は反対である。過労死したNHK記者は大変お気の毒だが、ことにジャーナリズムにおいて労働時間を長短で線引きすることは不可能だ。取材の途中で「あっ、時間だ」とUターンしていたのでは仕事にならない。

 人に会って話を聞くというのがジャーナリストの基本的な仕事である以上、必然的に「相手の都合」に合わせなければならないし、取材を避けている渦中の人物を直撃するには、深夜早朝の張り込みは必須である。“夜討ち朝駆け”は取材の基本であり、「労働時間」に縛られていたのでは仕事にならないのだ。

一律上限に反対する

 四十余年前、私が新卒で、後に休刊したナイガイスポーツ新聞社に就職したとき、編集局長からこう言われた。「記者とスポーツ選手は、親の死に目にあえないと思え」。記事は取材した当人しか書けないものであり、記者としての責任と自覚を持って仕事をせよ-という檄である。

 それから十数年後。「母危篤」の知らせを受けるのだが、翌日、締め切りの原稿があり、郷里の広島へすぐに帰ることができなかった。現在なら、新幹線の中で書いてメールで送れば済むが、当時はそんな時代ではない。徹夜で仕上げ、原稿を渡して新幹線に飛び乗ったが、数時間の差で死に目にはあえなかった。ジャーナリズムとは、そういう職種であり、この考え方は四十余年がたった今も変わらない。

 思い返せば週刊ポスト記者時代は、それこそ24時間が仕事だった。張り込みは日常の取材活動で、芸能関係者はもとより政治家、スポーツ選手、評論家…、事件の渦中にある人たちを追いかけ、張り込み、取材を試みる。もちろん締め切り時間のデッドラインまでトライする。

 1行のコメント、核心をつくコメントを取るために24時間を費やすのが記者の仕事であると同時に、手抜きして「無理でした」「不在でした」「取材拒否です」と言えば、それでも通る。労働時間は「自己の裁量」に委ねられるのがジャーナリストという仕事であり、私は自己の経験から、一律に労働時間に上限を設けることに反対する。

みんなちがっていい

 かの自民党筆頭副幹事長、小泉進次郎氏が4年前、こんな発言をしている。

 東大の学園祭である五月祭で、投資家の瀧本哲史氏との対談イベントの後、聴衆から「政治家を目指しているが、大切なモノは何か」と問われたときのこと。「体力が一番必要です」と笑顔で応じてから、こう答えている。

 「『ウチの会社は週1日しか休みがないブラック企業だ』なんて話を聞きますが、政治家はもっとブラック(笑)。休みなんてない。ある意味で非正規職の立場です。でも結局、自分で決めたことなんだから」(『週刊現代』2014年6月7日号)

 政治家をジャーナリストに置き換えれば、労働時間の長短で計れない職業であることがお分かりいただけるだろう。

 現代社会は多様化の時代だ。性的マイノリティーの存在を認め、「みんなちがって、みんないい」という金子みすずの詩を引きながらも、「働き方改革」となると、「みんな同じで、みんないい」という大合唱になる。

 多様性が叫ばれる一方、なぜ「労働時間」だけが一律に長短で論議されるのか。なぜ「みんなちがって、みんないい」という発想をしないのか。0か1かというデジタル時代が、物事の価値観を画一化しているように、私には思えてならない。

 【プロフィル】向谷匡史(むかいだに・ただし) 作家。昭和25年、広島県生まれ。拓殖大卒。週刊誌記者などを経て、作家のほか、浄土真宗本願寺派僧侶、日本空手道「昇空館」館長も務める。著書に『田中角栄 絶対に結果を出す「超」時間管理術』(三栄書房)、『小泉進次郎「先手を取る」極意』(青志社)などがある。

 iRONNAは、産経新聞と複数の出版社が提携し、雑誌記事や評論家らの論考、著名ブロガーの記事などを集めた本格派オピニオンサイトです。各媒体の名物編集長らが参加し、タブーを恐れない鋭い視点の特集テーマを日替わりで掲載。ぜひ、「いろんな」で検索してください。