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英語でシベリア抑留記を書いた謎の特務機関員 長勢了治氏が発掘

戦後、英語で出版されたシベリア抑留体験記の口絵。作業現場で「ノルマの超過遂行」が呼びかけられていた様子を描いている
戦後、英語で出版されたシベリア抑留体験記の口絵。作業現場で「ノルマの超過遂行」が呼びかけられていた様子を描いている
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 ヤマモトは48年6月からは同共和国のカラガンダ炭鉱で約2カ月、坑内作業をしたあと、帰国のため極東のナホトカに送られた。しかし、心ならずも「反動」と密告されて一年間も留め置かれ、徹底的な洗脳教育を受けた。極度の「猜疑」と「恐怖」の末に帰国できたのは49年9月のことだった。出版はこのわずか2年余り後のことだ。

 ヤマモトはスターリンの復讐(ふくしゅう)の影におびえながらも「ソ連共産主義の悪魔を除去」し、「日本を自由主義陣営に留めるために」死を覚悟で執筆、出版したと悲壮な決意を明かしている。

 長勢氏はヤマモトが「スパイ誓約書に署名したと考えるのが自然だ」とみる。

 長勢氏の調査によると、同じアジア出版からは戦後、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに収監されていた児玉誉士夫の著書「われ敗れたり」(東京出版社)を英訳した「I was defeated」が51年に出版されている。

 長勢氏は「英文で300ページもの分厚い本を2年ほどで出版することは、4年もの抑留を経て帰国した男が単独で実行できるほど簡単なことではないだろう」と指摘。「ロシア語専攻のヤマモトが英語まで自在にあやつれたとすれば自身が日系2世でバイリンガルだったのではないか。あるいはGHQの通訳で(「われ敗れたり」の訳者の一人だった)福田太郎のような日系2世が手助けしたのではないか」とみる。

 福田太郎は巣鴨プリズンで児玉と出会い、後の「ロッキード事件」でフィクサーとされた児玉とロッキード社の連絡係を務め、捜査の渦中で76年に急死した人物である。(斎藤勉)

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