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中曽根元首相死去「首脳外交」を定着 米中韓関係構築

日米首脳会談を行ったレーガン米大統領と中曽根康弘首相=昭和58年11月11日、東京・日の出山荘
日米首脳会談を行ったレーガン米大統領と中曽根康弘首相=昭和58年11月11日、東京・日の出山荘

 「戦後政治の総決算」-。昭和57年11月に就任した中曽根康弘首相(当時。以下同)が訴えたこの言葉は、中曽根政治の代名詞になった。

 中曽根氏は後に『中曽根康弘が語る戦後日本外交』(新潮社)で、このように振り返っている。

 「対米依存の外務省主導の色合いが強過ぎることに対して、日本の自主性、独自性、換言すれば自主防衛の確立と、対米発言権の確保と、アジア政策の展開とを主軸に考えていた」

 また、外務省から首相秘書官に就いた長谷川和年氏は「中曽根さんは相手の首脳の心に入り込む外交を目指した」という。こうしたスタンスが「首脳外交」を定着させたといえる。

 鈴木善幸前政権は2つの外交問題を残して退陣した。一つは、鈴木氏が日米同盟に軍事的意味合いはないと発言したこと、もう一つは対韓経済協力に関する園田直外相の発言に対して韓国側が侮辱する内容だと反発し、日韓が断絶に近い状態になったことだった。

 首相最初の訪問国に、外務省は米国を勧めたが、中曽根氏はアジア重視の観点から韓国を選んだ。

 58年1月に訪韓、全斗煥大統領主催の晩餐(ばんさん)会でのスピーチで4割近くを韓国語で話した。スピーチが終わると全員が立ち上がって拍手し、「日本の首相が自分たちの言葉で話してくれた」と涙を流す出席者もいた。両首脳は懸案の対韓経済協力を妥結し、新次元の善隣友好関係をうたった共同声明を発表した。

 続いて米国を訪問。米紙社主との会合での「不沈空母」発言が日本国内で物議を醸す中、中曽根氏は鈴木発言を払拭させる米国に対する「ショック療法」(『天地有情』=文芸春秋)になったとしている。

 レーガン米大統領とは「ロン・ヤス」とファーストネームで呼び合うようになり、同氏から後に「真の友人」と評されたが、東西冷戦のさなかにあって日米同盟の強化とともに、米国との対等な関係の構築に努めた。

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