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中曽根康弘氏を悼む 憲法改正 生涯の夢追い 産経新聞社相談役(前会長)熊坂隆光

 昭和61年7月、衆参同日選挙で自民党が圧勝し笑顔の中曽根康弘首相=東京・永田町の党本部
 昭和61年7月、衆参同日選挙で自民党が圧勝し笑顔の中曽根康弘首相=東京・永田町の党本部

 「俺も八州無宿、国定忠治の流れを汲(く)む上州の生まれよ。時にはいかさま賽(ざい)も使うってことさ」

 「君子豹変(ひょうへん)」とはよくいったもので、中曽根康弘氏を取材していると、ときどき、びっくりするような変わり身の早さに驚かされることがあった。それが「風見鶏」という傍目(はため)には不名誉な評価の原因となったのだが、本人は「風を読めなければ国は動かせない。坂本龍馬も高杉晋作も偉大なる風見鶏だった」といって気にもかけなかった。国のためならいかさま賽もいとわない、というのである。

 佐藤栄作政権時代、党内反佐藤勢力の急先鋒(せんぽう)だったが、突然運輸相として入閣してしまう。当然ごうごうの非難を浴びたが、平然と「匕首(あいくち)の切っ先が届く範囲に飛び込んだほうが、敵の首は狙える」と言い放った。「角福戦争」では、だれもが同じ群馬県の福田赳夫氏を応援するものとみていたが、土壇場で田中角栄氏支持に。「日中国交正常化を実現してくれるのは角さんしかいない」がその理由だった。それまで誰も中曽根氏から日中国交正常化急ぐべしという話を聞いていなかったのに。

 結果としてこれが田中氏との関係強化につながり、政権への道を少しずつ前進させたのだから「いかさま賽」というより天性の処世の術にたけていたのかもしれない。古い自民党政治の中で「保守傍流」とされた中曽根氏が政権の座を目指すためにはいたしかたないことだったのだろう。

 政治目標を達成するためには政権の座に就かなくてはならない。そのためには毀誉褒貶(きよほうへん)を気にしてばかりいられなかった、ということか。

 鈴木善幸内閣では、意に反して行政管理庁長官に起用された。多くの永田町ウオッチャーは「歴代内閣が頭を痛めた行革がうまくいくわけがない。失敗すればまた政権の座が遠のく」と受け止めた。ところが、臨時行政調査会を立ち上げ、象徴的な存在として、土光敏夫氏をトップに招き、行革をある種のブームにまで高めてしまった。国鉄民営化などはその成果だ。

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