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【歴史の転換点から】江戸無血開城の「点と線」(4)西郷と勝 慶喜助命は暗黙の了解 

勝海舟(福井市立郷土歴史博物館所蔵)
勝海舟(福井市立郷土歴史博物館所蔵)
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 これまでもっぱら京都や大坂で活動していた慶喜が江戸に到着して以降、まず「開戦」か「恭順」か-について議論が沸騰した。当初、ゆれを見せていた慶喜が1月中旬、「恭順」を決めた後は朝敵として追討令が出されている彼が助命されるか否かが最大の焦点となった。主戦派はいまだ勢力を保持している。助命が拒否されたさいには、旧幕臣は武士の面目をかけて主君を守るために「開戦」で一致することは火を見るより明らかだった。

西郷、虚々実々

 「退隠するから追討を中止するようにとの慶喜の嘆願は不届き千万。是非切腹までもってゆかなければ物事が落ち着きませぬ」

 2月2日、西郷は盟友の大久保利通にそう書き送っている。また同じ月の下旬だろう。大村藩士の渡辺清によると、駿府(静岡市)に兵を進めてきた彼をはじめとする新政府軍幹部の前で西郷は、勝からの書簡を手に「顔面火のように」にして大声を上げた。

 「勝は言うまでもなく、慶喜の首を引き抜かずにはおられぬ!」

 これは前回も引用した『史談会速記録 第68集「江城攻撃中止始末」』にある話である。「大要は覚えております」という渡辺によると、勝は、その気になれば海上封鎖や艦砲射撃によって新政府や軍の機能をマヒさせることができるほど圧倒的な戦力をもつ旧幕府海軍をあえて自重させ、恭順を示しているにもかかわらず、新政府軍が江戸へ進撃しようとしていることを批判。また、人々が極度に興奮し、何が起きるかわからない江戸に進駐することなく、箱根で兵をとどめるよう要請していた。

 実はそのような挑戦的な書簡は勝の日記には記録されておらず、建言類をまとめた全集にも収載されていない。だが、勝の日記には不審な点がある。研究の第一人者、松浦玲氏が指摘しているように、勝日記には2月中旬に「西郷に送った」とする書簡と3月、西郷にあてて山岡鉄舟に託した書簡の全文が記載されているのだが、この2通の内容がほぼ同じなのだ。

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