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【歴史の転換点から】「本能寺の変」の真相に迫る(4)細川護熙氏、光秀の大河「成功を祈る」

「本能寺の変」を招いた光秀の怨恨

 「信長による乱暴」という視点から光秀を見つめると、彼は本能寺の変に至るまでよく我慢していたとさえ思います。

 その理由についてはいくつも挙げることができます。異論はあるようですが、八上(やかみ)城(兵庫県丹波篠山市)攻略のさいには、和議に応じた城主を信長が処刑した結果、人質として八上城内に差し出していた自分の母が殺されたと伝えられています。また「変」の直前には、光秀にとっては家臣を通じて“縁戚”ともいえるような関係だった土佐の長宗我部(ちょうそかべ)氏について信長は光秀を無視するかっこうで征伐することを決定しています。

 また、信長は光秀の額を扇子で打ち、けがをさせたともいわれていますし、数々の屈辱に武門の面目が立たなくなったのが「光秀謀反」の主因とする説もあるようです。いずれにせよ、光秀にとって信長は、「政(まつりごと)を為すの著眼(ちゃくがん=着眼)は情の一字に在り。情に循(したご)うて以て情を治む」という前回申し上げた格言にいう「情」に欠けた政治家だったことが「変」が起きた最大の理由だったと考えています。

第79代内閣総理大臣として会見する細川護熙さん=1994年2月
第79代内閣総理大臣として会見する細川護熙さん=1994年2月
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 まずこういった広い意味での怨恨があり、それを晴らした先に天下取りがある。そういった意味で、光秀にはまず「天下への野望があった」という説には賛成しかねます。「天に代わって信長を討つ」とする「暴君討伐説」といった見方もあるようですが、それは大義名分を掲げるための後付けの理屈みたいなものでしょうね。

人望が戦国武将の命運を分けた

 光秀に関しましては、相当に教養があって、武将としても行政官としてもその能力は傑出していたと考えています。またあばたの女性をあえて妻としたように人情にも厚い人だったようです。

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