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【歴史の転換点から】「本能寺の変」の真相に迫る(2)信長を神明が罰した

「変」への予兆

 また、小異はあるが、『細川家記』『永源師檀紀年録』ともに、「変」の数年前、幽斎と光秀の間にこんなやりとりがあったことを記している。

 「信長公の悪逆は日蓮宗に帰依後、日に増長している。貴殿はそれを改めさせようと思い、心を砕いている。不可能ではないだろう。しかし、凡衆に抜きんでた者は讒言(ざんげん)に傷つけられ、林から抜きでた木は風によって折られる。よくご思案あれ」

 幽斎がこう忠告すると、光秀は「肝に銘じましょう」と感謝した-。

 さらに『永源師檀紀年録』によると、「変」の数週間前、光秀は家臣の引き抜き問題などをとがめられ、信長と小姓の森蘭丸から計2度にわたって額を打たれて出血し、醜い傷跡が残った。それを見た幽斎は明智家の屋敷に出向き、数時間にわたって光秀を「説諭」。また「変」の約1週間前には、「心知らぬ人は何とも言わば言え 身をも惜しまじ名をも惜しまじ」と詠み、沈思する主人の様子を心配した光秀の家臣に「教諭」を頼み込まれ、幽斎は「信長公に恨みをもってはならない」と光秀に説いたという。

 信長と日蓮宗との関係を一例として、両書にはふに落ちない記述が散見されるのは確かだ。しかし、これらの話が大意において真実を伝えているならば、浮かび上がってくるのは、信長に忠言が容れられないばかりか理不尽に体面を汚される光秀の姿である。

 そこから生まれた怨恨(えんこん)が光秀に本能寺の変を決意させたのだろうか。また、幽斎は光秀の逆心に気付いていたのか。次回、旧熊本藩主細川家18代当主であり、第79代内閣総理大臣を務めた細川護煕さん(81)とともに考えてみたい。(編集委員 関厚夫)=(3)に続く

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