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【歴史の転換点から】「本能寺の変」の真相に迫る(2)信長を神明が罰した

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明智光秀の居城の一つ、福知山城の天守閣(1986年の再建)=京都府福知山市(関厚夫撮影)
明智光秀の居城の一つ、福知山城の天守閣(1986年の再建)=京都府福知山市(関厚夫撮影)
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 「本能寺の変」の当日-天正10(1582)年6月2日(旧暦)、明智光秀が美濃国(岐阜県南部)のある城主にあてた書状の写しが江戸時代前期の歴史書『武家事紀』に収載されている。

信長の悪逆と光秀の遺恨

 「父子悪逆天下之妨討果候」

 その冒頭の一文である。「父子」とは織田信長とその長男、信忠のこと。光秀率いる1万数千の軍勢によって信長は京都・本能寺で、勇猛で知られた信忠は二条城で自害する。この2人の悪逆(あくぎゃく)は天下の妨げ(害毒)であるから討ち果たした-と主張しているのだ。

 また『別本川角太閤記』には、同じころ、当時、備中国(岡山県西部)・高松城を攻囲中の羽柴(豊臣)秀吉と対陣していた毛利家の重鎮、小早川隆景(たかかげ)に光秀があてたものの、ついに届かなかったとされる密書の写しが掲載されている。その真偽については研究の諸大家のなかでも意見が割れているのだが、以下のような文言がある。

 「光秀こと、近年信長に対し、憤りを懐き、遺恨黙止(もだし)難く、今月二日、本能寺において信長父子を誅し、素懐を達し候」

 これらの「書状」をつなぎ、「本能寺の変」の前後における光秀の言動と心理を照射する資料がある。一時は光秀の「盟友」ともいえる存在だった細川幽斎(藤孝)を祖とする旧熊本藩主細川家に伝わる『細川家記(綿考輯録=めんこうしゅうろく)』と『永源師檀紀年録』である。

 幽斎は天文3(1534)年、室町幕府将軍の側近・御部屋衆の三淵家に生まれ、後年、細川氏を継いだ。12代将軍、足利義晴の落胤(おとしだね)とも伝えられる。名は「藤孝」といい、後述するように本能寺の変を機にもとどり(髪を頭頂部に束ねたもの)を切り、「幽斎」と号する。

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