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【歴史の転換点から】「本能寺の変」の真相に迫る(1)明智光秀は「祟り神」だった

西側から「鬼のモニュメント」(成田亨制作)をのぞむ。先頭の鬼が指し示す先に京の都がある=京都府福知山市大江町(関厚夫撮影)
西側から「鬼のモニュメント」(成田亨制作)をのぞむ。先頭の鬼が指し示す先に京の都がある=京都府福知山市大江町(関厚夫撮影)
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 世界はいま、歴史の転換点を迎えている。令和への御代替わりはその象徴であろう。過去、こうした一大エポックはどのようなかたちであらわれ、先人たちはどう対応してきたのか。その営みに現代からの光をあてながら考えてみたい。「混沌」の観さえある近未来を生きるためのヒントを見つけるために。まずは空前絶後の謀反劇「本能寺の変」である。(編集委員 関厚夫)

 「変」が起きたのは437年前のちょうどいまごろ-天正10(1582)年6月2日(旧暦。新暦では21日とされる)の未明、舞台は京の都だった。

 謀反の主は言わずと知れた明智光秀。なぜ彼は「主殺し」を敢行したのか-。その答えについては、光秀個人が抱いていた天下への野心説や織田信長に対する怨恨(えんこん)・遺恨説、室町幕府最後の将軍・足利義昭あるいは朝廷による黒幕説に、秀吉や徳川家康、さらにはイエズス会が陰で糸を引いていた-などとする奇説・珍説の類が加わり、百家争鳴かつ玉石混交の観がある。

 本稿では、一時は光秀の「盟友」だった細川幽斎(藤孝)や彼の嫡男で光秀の娘、玉(後のガラシャ)を妻として迎えた忠興(ただおき)の視点から信長-光秀の主従関係と光秀の内面をひもとき、「変」の真相に迫りたい。そこでまずは光秀の「素性」についてである。

出生と前半生は謎

 光秀の名は、彼が30代も後半になって以降、ぽつぽつと信頼のできる史料に登場するが、それ以前の経歴については不明である。明智家は美濃国(岐阜県南部)守護の名族・土岐氏の庶流とされるが、光秀についてはいまだその父親の名前、また出生年さえ諸説あってはっきりとしない。

 信長の家臣としては新参の部類ながら光秀は、後世から「近畿管領」「近畿方面軍司令官」と称されるほどとりたてられた。信長は「変」に斃(たお)れるまで、日本全国統一への道をまっしぐらに進んでおり、イエズス会宣教師、ルイス・フロイスの報告書によると、その視線の先には「シナ」があったという。

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