第4部 万博(3)悲願の大阪万博 「戦後」払拭、国民の6割が足運ぶ

明治150年

 今夏、じりじりと強い日差しが照りつける中、万博記念公園(大阪府吹田市)にそびえ立つ太陽の塔を訪れる人は後を絶たない。

 岡本太郎が制作し、昭和45年開催の大阪万博のシンボルとして親しまれて半世紀近く。今年3月からは内部の一般公開が始まり、予約枠が4カ月先までほぼ埋まる盛況だ。

 「40年以上ぶりですよ。懐かしい」。熱心に写真を撮っていた東京都葛飾区の1級建築士、八渡(やわたり)健一郎さん(56)。8歳のときに家族に連れられ、大阪万博に来たときのことを今でも鮮明に覚えている。

 「とにかくすごい人だった。各パビリオンのデザインがそれぞれ異なっているのがとても興味深くて、見て歩くのが楽しかった」。あのときの感動が、建築の道に進む一つのきっかけとなったという。

 今や大阪のシンボルとなった太陽の塔の周りでは、記念撮影する家族連れやカップルがひっきりなし。猛暑だったのに、どの顔も楽しそうだ。大阪は再度の感動を、と平成37(2025)年の万博誘致を目指し、今年11月の決定に向けて活動を続けている。

 日本で初めて開かれた万博、それが大阪万博だ。

 日本は万博開催を目指し、国内の産業奨励を目的とした内国勧業博覧会(内国博)を明治10年から開催していた。最後となった5回目の内国博は36年、現在の大阪・天王寺公園一帯で開かれ、435万人が訪れる最大規模に。十数カ国からの出展もあった。

 この成功体験は大きく、東京五輪が開催された昭和39年ごろに日本で万博開催の機運が高まり出すと、大阪が誘致に動き出す。仕掛け人は吉田松陰の兄の孫で、大阪商工会議所会頭などを務めた杉道助さんといわれる。

 「欧米だけで開催されている万国博を、大阪でやろうじゃないか」。38年の大阪商工会議所の新年の集まりで、杉さんが当時の左藤義詮(ぎせん)・大阪府知事に持ちかけた。

 明治以来日本は3回、経済的な事情や世界情勢の悪化で万博開催を断念してきていた。戦後、高度経済成長を経て、やっと訪れた「4度目の正直」だった。

 大阪万博に日本中が熱狂した。月の石、動く歩道、モノレール、ロボット…パビリオンには長蛇の列ができた。政府は幹線道路や鉄道などの整備に約6500億円を投入。日本が万博一色に染まった。新聞、雑誌、テレビは「万博特集」を組み、全国から一目見ようと観客が押しかけた。

 総入場者数は6422万人。当時の日本の人口は約1億400万人、約6割が足を運んだことになる。1日の平均入場者数は約35万人、最多入場者数を記録したのは閉幕が近づいてきた45年9月5日で約83万人に上り、帰宅できず会場周辺で野宿する人もいた。期間中、約4万8千人の迷子が出たという。

 会場を訪れたことのある多くの人が、「万博で初めて外国人を見た」と回想する。当時まだ一般市民にとって遠い存在だった海外の文化や民族を、万博は一気に近くに引き寄せた。

 戦後、焼け野原の廃虚から再出発した日本は、驚異的なスピードで経済成長を遂げ、明治以来の日本の悲願である万博を大阪で開催することに成功した。

 大阪府立大の橋爪紳也教授は「万博はその時代の主題を映す。大阪万博は、高度経済成長を謳歌していた日本の豊かさを世界に示すことができた」と指摘する。

 大阪市生まれの橋爪教授は45年の大阪万博当時、小学4年生。万博には18回も訪れた。「想像力を喚起する力、多様な価値を容認する文化の意義などが、皮膚感覚としてすりこまれた」と振り返る。

 商都・大阪は万博で世界に存在をアピールした。そこから55年後となる2025年の万博誘致で、再び存在感を示せるのか。