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終戦直後、ソ連向け出撃 決死の覚悟「洗脳だった」

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終戦直後、ソ連向け出撃 決死の覚悟「洗脳だった」

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 日本海軍の潜水艦「呂500」  日本海軍の潜水艦「呂500」
 日本海軍の潜水艦「呂500」の艦長から譲り受けた双眼鏡を手にする元乗組員の原弘さん=7月28日、松江市
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 日本海軍の潜水艦「呂500」の艦長から譲り受けた双眼鏡を手にする元乗組員の原弘さん=7月28日、松江市フルスクリーンで見る 閉じる

 終戦3日後、京都・舞鶴からソ連に独断で出撃を試みた日本海軍の潜水艦があった。艦名「呂500」の乗組員約50人は決死の覚悟で出港したが、上層部からの命令に従い翌日に泣く泣く帰還した。「戦死した兵士の分も最後に命を懸けて一矢報いる思いだったが、今思うと軍事教育に洗脳されていた」。今年6月、呂500が若狭湾の海底で見つかったという報道を機に、当時の乗組員が重い口を開いた。

 1943年夏、広島・呉の潜水学校の講習員だった松江市の原弘さん(96)は港に入る潜水艦を、手を振って迎えた。「あれがドイツからきた船か」。呂500は、技術交流の一環で同盟国の日本に譲渡されたUボートだった。翌年5月、練習艦として配備されたこの艦の主計兵となった。

 日本海軍の潜水艦「呂500」の写真を手にする元乗組員の小坂茂さん=7月9日、福井県越前市
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 日本海軍の潜水艦「呂500」の写真を手にする元乗組員の小坂茂さん=7月9日、福井県越前市フルスクリーンで見る 閉じる

 「船を見つけ、素早く潜る訓練が日課だった」と話すのは砲撃手だった福井県越前市の小坂茂さん(92)。45年初め、18歳で乗艦した。敵役として水上艦などと訓練を重ねる中、日本軍を取り巻く戦況は悪化。ついに臨戦準備の命令が下った。

 8月12日、舞鶴に入港。食糧や弾薬を積み込み出撃を待つうち15日に。艦内のラジオは調子が悪く、玉音放送の内容は陸地で聴いた同僚から知った。原さんはその夜、家々に煌々と明かりがともるのを見て「これが終戦かと何とも言えない気持ちだった」と振り返る。

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