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【福島から#20】 優しさに包まれて

東日本大震災

【福島から#20】 優しさに包まれて

更新 sty1702160011
福島県大熊町熊川で捜索する木村紀夫さん=2016年2月7日  福島県大熊町熊川で捜索する木村紀夫さん=2016年2月7日 

 瓦礫から遺骨が見つかった。父は手袋を脱ぎ娘に触れる。泥をよけると小さな顎に白く輝く三本の歯。2016年12月11日、福島県大熊町熊川。5年9カ月が過ぎていた。

土砂降りのなかでの捜索、休憩に就く。木村紀夫さん(右)と上野敬幸さん(右から2人目)=2016年9月18日、福島県大熊町熊川
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土砂降りのなかでの捜索、休憩に就く。木村紀夫さん(右)と上野敬幸さん(右から2人目)=2016年9月18日、福島県大熊町熊川フルスクリーンで見る 閉じる

 木村紀夫さん(51)は東日本大震災の津波で行方不明となった小学校一年生で次女の汐凪さん(当時7)を捜索し続けている。
 木村さんは津波に対する無知、身近にあった原子力発電所の脆弱性に対する無知を後悔している。
 2011年3月11日の揺れの後、大熊町の南隣、富岡町の職場で津波は3メートルとの予報を聞き海岸から約100メートル、標高5メートルの自宅は無事だと思った。夕刻に戻った自宅は無残だった。夜を徹して捜索した。翌12日、東京電力福島第1原発事故で自宅跡から離れざるをえなかった。小学校四年生で長女の舞雪さんを連れての避難生活が始まった。

津波で被災した家屋の解体をむかえ、上野敬幸さんは2階の長女の永吏可さんの部屋に入った=2016年1月31日、福島県南相馬市原町区萱浜
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津波で被災した家屋の解体をむかえ、上野敬幸さんは2階の長女の永吏可さんの部屋に入った=2016年1月31日、福島県南相馬市原町区萱浜フルスクリーンで見る 閉じる

 父の王太朗さん(当時77)は4月、妻の深雪さん(当時37)は6月に、遺体を確認した。一人取り残された汐凪さんの捜索は原発事故により困難を極めた。津波で全壊した熊川の自宅は第1原発の南約3キロ。警戒区域から帰還困難区域と名称が変わった今も立ち入り制限は続く。
 限られた回数の一時帰宅、限られた立ち入り時間。自衛隊が震災2カ月後に2週間行った捜索で集積した瓦礫の山があった。警察、自衛隊との情報共有はなかった。熊川の自宅跡で、海岸で、田畑で、汐凪さんを一人で探し続けなくてはならない。

汐凪さんが通っていた福島県大熊町立熊町小学校の卒業式に出席した木村紀夫さん(右)と長女の舞雪さん(左)=2016年3月23日、福島県会津若松市の仮校舎で
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汐凪さんが通っていた福島県大熊町立熊町小学校の卒業式に出席した木村紀夫さん(右)と長女の舞雪さん(左)=2016年3月23日、福島県会津若松市の仮校舎でフルスクリーンで見る 閉じる

 「何から手を付けていけばいいのだろう」。
 正直、辛かった。
 福島県南相馬市で行方不明者を捜索する男がいる。木村さんは2013年3月、移住した長野県白馬村から捜索に参加した。
 男は上野敬幸さん(44)。南相馬市原町区萱浜で長女の永吏可さん(当時8)、母の順子さん(当時60)を失った。長男の倖太郎君(当時3)と父の喜久蔵さん(当時63)は行方不明のまま。
 上野さんは木村さんに応えた。
 「いつでも大熊、一緒に行きますよ」。

思い出の詰まった家屋の前で。(左から)上野敬幸さん、倖吏生さん、貴保さん=2016年1月30日、福島県南相馬市原町区萱浜
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思い出の詰まった家屋の前で。(左から)上野敬幸さん、倖吏生さん、貴保さん=2016年1月30日、福島県南相馬市原町区萱浜フルスクリーンで見る 閉じる

 木村さんは、上野さんと捜索活動を行う「福興浜団」のメンバーと、2013年9月、大熊町熊川に向かった。以来、共に通い続ける。
 木村さんには戸惑いがあった。参加者を被曝させてしまう。5時間に制限された一時帰宅での立ち入りで、絶望的な景色を前に何ができるのだろう。
 当初は海岸を見回るだけだったのが、いつしか、自衛隊が集積し残していった瓦礫に手を付けた。一つずつ取り除きスコップで土を掘り出す。根気がいる作業だ。木村さんは2012年6月、汐凪さんが履いていた靴を瓦礫から見つけている。上野さんたちが同行するようになってから汐凪さんの衣服など手がかりが見つかる。

木村さんの表情に変化がでてきた。

満開の菜の花。木村紀夫さんが愛する地=2016年5月7日、福島県大熊町熊川
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満開の菜の花。木村紀夫さんが愛する地=2016年5月7日、福島県大熊町熊川フルスクリーンで見る 閉じる

 上野さんは木村さんの強張った顔が少しずつ緩んでいくのを見てきた。大熊町熊川での捜索で会話をする。時には幼い汐凪さんには聞かせられないような話も。それが楽しくて笑う。
 上野さん自らもそうであった。
 津波で被災した南相馬市原町区萱浜の自宅は福島第1原発の北22キロ、震災と原発事故後、緊急時避難準備区域に指定された。放射能のこと、怖いと思う感覚がなかった。愛する二人のわが子がいない、多くの人が行方不明のまま。萱浜で生き残った人たちと泣き続けた。

木村紀夫さん(右)と上野敬幸さん(左)。木村さんの自宅跡の裏山で=2016年7月30日、福島県大熊町熊川
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木村紀夫さん(右)と上野敬幸さん(左)。木村さんの自宅跡の裏山で=2016年7月30日、福島県大熊町熊川フルスクリーンで見る 閉じる

 震災から1カ月が過ぎた2011年4月後半、自衛隊が萱浜で2週間捜索を行い、去って行った。ニュースでは岩手県、宮城県での自衛隊、警察による捜索活動が報じられている。福島県での状況を深慮する暇はなかった。自ら探し続ける。
 5月に入りボランティアが加わり萱浜の人たちと「福興浜団」が自然発生的に形成されていく。
 しかし、上野さんは心を開かなかった。外から来た人と会話を拒んでいた。話したいという気持ちすらなかった。自らと同じ境遇の人、萱浜の人としか話せなかった。

 倖太郎君は見つからない。見つけたら「自死」する覚悟でいた。

 9月、妻の貴保さん(40)との間に次女が誕生した。永吏可さんと倖太郎君から一文字ずつとって、倖吏生と名付けた。

 「福興浜団」に参加する仲間と少しずつ打ち解けてきた。いつからなのか、きっかけもわからない。

 二人の子との思い出の地、専業農家だった両親が残してくれた田畑。津波で失われた人たちが安心して見守れる萱浜にする、笑いあえる場所へ。

 上野さんら「福興浜団」は南相馬市原町区萱浜で震災後の2013年から毎春、菜の花を満開にさせ迷路を作り子供たちを楽しませている。

 大熊町熊川でも、木村さんの自宅跡前に広がる田んぼを耕運し菜の花の種をまいた。自宅裏の高台には太陽光で蓄電され夜に輝くイルミネーション。独りぼっちの汐凪さんが寂しくないようにと。

 東京電力福島第1原発を取り巻くように福島県大熊町、双葉町に中間貯蔵施設の建設が行われている。環境省が進める福島県内で出た除染廃棄物を貯蔵する施設。木村さんの自宅跡、農地も建設予定地となる。

 木村さんは2016年、決断をした。施設建設の事業で瓦礫を分別してもらう。

11月に建設を請け負う共同企業体が作業を開始した。重機を入れた人海戦術。

成果は早かった。汐凪さんのランドセル、震災当日に巻いていたマフラーが見つかった。12月に入り、遺骨が見つかった。

喜びか、死との直面か。その骨を手にしたとき、木村さんは汐凪さんと確信した。しかし、現実感はなかった。

 後日、福島県警の鑑定で汐凪さんと確認され、大熊町熊川で上野さんら捜索の参加者と焼香した。強烈な悲しみが現実として襲ってきた。

 「福島は変だ、おかしい」。

 上野さんは数字を把握している。福島県では震災で約1600人が犠牲になり、200人近くが行方不明のまま。

 放射能、原発事故の話題で命が置き去りにされている。探す命にもっと光を照らしてほしい。家族に会わせてあげたいし、会いたい。可能性がある限り。 

 木村さんのもとには汐凪さんの三本の歯しか戻ってきていない。顎の部分と他に見つかった小さな骨は福島県警が今後照合していく。瓦礫の下でバラバラにされた悔しさ。中間貯蔵施設に土地は売りもしないし貸しもしない。

 汐凪さんのすべてを探し続けていく。

 「無いに越したことはない出会いだった」。

 木村さんと上野さんが共通して振り返る想い。しかしそれは、汐凪さんと倖太郎君が引き合わせてくれた。多くの人が捜索に参加してきた。優しさに包まれた出会いだった。

 上野さんは夜明け前に目を覚まし南相馬市原町区萱浜の地を独り歩く。海岸は防潮堤の建設が進む。倖太郎君は隠れているのかな。もう、「自死」はしない。専業農家で生きていく。そしていつか、死ぬ時は笑っていたい。

 「天国で永吏可、倖太郎と会えるから」。

 木村さんは大熊町熊川で捜索に参加してくれる人たちに、汐凪さんに触れてもらいたい。世話好きで優しい子だったと自慢できる。汐凪さんが語り掛けていた仕草、口癖を忘れない。

 親指を立てて、

 「だいじょうぶ」。

** 井沢雄一郎(フリーランス写真記者:1969年9月生まれ 福島県在住)

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