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無料の都営交通「佃の渡し」 【昭和探偵団】

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無料の都営交通「佃の渡し」 【昭和探偵団】

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佃島を出発し明石町に向かう渡し船。蒸気船による曳舟渡船だった=昭和36年9月  佃島を出発し明石町に向かう渡し船。蒸気船による曳舟渡船だった=昭和36年9月 
物思いにふける制服の少女を乗せて穏やかな隅田川を行く渡し船=昭和37年、東京都中央区
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物思いにふける制服の少女を乗せて穏やかな隅田川を行く渡し船=昭和37年、東京都中央区フルスクリーンで見る 閉じる

 東京五輪を2年後に控えた昭和37年夏、東京の隅田川で写した1枚。中央区の明石町と佃島を結ぶ「佃の渡し」は都営最後の渡し船で、通勤の足として親しまれていた。夕日が照らす少女の視線の先には建設が進む佃大橋が見える。
 隅田川河口にある佃島は江戸時代からの漁師町。北側には石川島播磨重工業の造船所があった。佃島へは銀座方面からは勝鬨橋、門前仲町方面からは相生橋で渡れたが、佃の渡しは2本の橋のほぼ中間にあった。
 利用客の多くは造船所職員。運賃無料で運航は15分間隔、昭和30年には1日70往復していた。会社へ急ぐあまり桟橋を離れた船に飛び乗ろうとして失敗、川に落ちる人もいた。また、佃島から築地方面へ飲みに出かけ、午後時の最終船に乗り遅れて隅田川をふんどし姿で泳いで帰宅する猛者もいたという。

これが本当の〝井戸端会議〟だ。洗濯機は発売されていたが、まだまだ手洗いが一般的な時代=昭和36年9月、中央区佃1丁目
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これが本当の〝井戸端会議〟だ。洗濯機は発売されていたが、まだまだ手洗いが一般的な時代=昭和36年9月、中央区佃1丁目フルスクリーンで見る 閉じる

 佃島在住の山田秀子さん(69)は江戸時代、最初に佃島に移り住んだとされる漁師33人の末裔。幼い頃は隅田川で泳いだ記憶もある。自宅2階からは「富士山と完成間もない東京タワーがきれいに見えた」と懐かしむ。

 そんな佃島に昭和36年、東京五輪の関連事業が持ち上がる。開閉式で渋滞が深刻な勝鬨橋の混雑解消を目的に、渡し船に代わって佃大橋が建設されることになったのだ。戦後初めて隅田川に架けられた橋だった。

 昭和39年8月に完成、橋の近くにある中央区立佃島小学校の鼓笛隊が「渡り初め」を行う一方で、渡し船では別れを惜しむ人たちの「渡りじめ」が何往復も行われた。この日、江戸時代から続いた「佃の渡し」は320年の歴史を静かに終えた。(写真報道局 大山文兄)

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