PR

ライフ ライフ

【門井慶喜の史々周国】近代的発展の水源 福島県・猪苗代湖

志田浜から眺めた猪苗代湖。山頂に雲がかかった磐梯山が向こうに見える=福島県猪苗代町(筆者撮影)
志田浜から眺めた猪苗代湖。山頂に雲がかかった磐梯山が向こうに見える=福島県猪苗代町(筆者撮影)
その他の写真を見る(1/2枚)

 昭和五十七年(一九八二)の東北新幹線の開通は、私には驚天動地の事件だった。何しろ小学五年生である。宇都宮にいたのである。あの雑誌やテレビでしか見たことのない、時速二百何十キロという信じられない速度で走る近未来の乗りものが、まさか自分の街に停車するとは。

 これでは宇都宮は、もはや東京や大阪や博多とおなじではないか。小学校では児童全員に記念のプラスチック下敷きが配られた。下敷きの片面にはグリーンのラインも美しい丸目の車体の写真が載り、もう片面には時刻表が印刷されていた。私はその時刻表をいっしょうけんめいノートに写して、

「ばかだな、カドイ。すぐ変わるのに」

 と同級生に言われたこともおぼえている。

 その楽しい書き取りのなかで、みょうに心に残ったのは郡山という駅名だった。宇都宮から北へ三つ目。コオリヤマと読む。地図帳で見たら福島県のまんなかやや右、つまり東寄りにあった。

 近くには磐梯山という大きな山もある。私は何となく、

 --氷の山。

 そんな風景を想像したらしい。まるでいま冷凍庫から出したばかりみたいに白い冷気をふわふわさせつつ天までそびえる。もちろん実際には郡山のコオリは古代の役所の意味と思われるので、氷とは何の関係もないわけだが、そんなことが最近はふしぎと思い出されるのも年のせいだろう。今回は、猪苗代湖をおとずれることにした。

 猪苗代湖は、日本で四番目に大きい湖である。福島県のほぼ中央にある。じつは郡山市以外の自治体にも接しているのだけれど(湖の東のほうに郡山市街がある)、近代的発展の水源になったという点では郡山市がいちばんだろう。ここで「水源」という語を使ったのは、文字どおりの意味なのである。

 郡山の地は、もともと広大な原野だった。そこへ猪苗代湖から水を引きこんで、まるごと水田にしてしまおう。そんな構想が、明治の早い段階で持たれたのが事のはじまり。水路の名が「安積疏水(あさかそすい)」と呼ばれたのは、安積が郡山の古名だからだった。

 東京政府も、乗り気だった。オランダ人技師ファン・ドールンに水路の設計を依頼し(これだけでも大金がかかる)、約三年間の年月と、のべ八十五万人もの労働者とをつぎこんだほど。完成した水路は総計約五十二キロ、地図上では「E」の字の横棒が七本あるようなかたちになった。

 通水は、明治十五年(一八八二)十月一日だった。祝賀式にはわざわざ右大臣岩倉具視(ともみ)、大蔵卿松方正義、農商務卿西郷従道(つぐみち)、宮内卿徳大寺実則(さねのり)らが来たというから政府もよほどうれしかったのである。考えてみればこの時点では、東京からの鉄道(東北本線)は、開業どころか着工にも至っていなかった。線路より水路のほうが先だったわけだ。

 その理由としてはよく「士族授産」ということがいわれる。社会制度の改革によって没落した旧武士階級の人々がもはや反乱を起こさぬよう、政府みずから仕事をあたえる。この地にあつまった旧武士はずいぶん熱心だったらしいし、だからこそ三年ぽっちで完成したのだろうが、彼らにしてみれば、ここの仕事はほかとはちがう。

 --お米のため。

 という意識があったのかもしれない。

 これは武士の恥ではないのだ。むしろあの武士の最高の名誉というべき「加増」の一変種にほかならないのだと、そう自分に言いきかせた。人間を真に勤労させるのは、給料よりも、地位よりも、自尊心が傷つかないということなのである。

 猪苗代湖では、志田浜に下りてみた。人の姿がなかったのは、あるいは風が強かったからか。海も荒れていた。もちろん海ではなく湖なのだけれど、そんな感じの水の色であり、波の高さである。磐梯山には、ぶあつい雲がかかっていた。

 郡山市は、右の遠くにあるはずである。この水がすなわち通水当時は茫々(ぼうぼう)二千ヘクタール以上、現在の東京都港区とおなじほどの荒れ野に稲をみのらせたのだと私はみょうに心が躍ったが、それだけではない。それはのちに水力発電にも利用できたため工場もふえたし、人口もふえた。郡山がとうとう戦後には新幹線をさえ停めさせる大都市になったのも、そう、ここが文字どおり水源なのである。

 まことに郡山とは水の街である。小学生のころコオリヤマという音のひびきから氷の山を想像したのは粗忽(そこつ)な誤解というべきか、それとも当たらずといえども遠からずというべきか。私はなおも強い風に吹かれつつ、磐梯山の雲を見つつ、微苦笑の人でありつづけた。

あなたへのおすすめ

PR

PR

PR

PR

ランキング

ブランドコンテンツ