PR

ライフ ライフ

【書評】『田中家の三十二万石』岩井三四二著 乱世生き抜いた男の孤独

『田中家の三十二万石』
『田中家の三十二万石』

 本作は、農民から筑後国柳河32万石の大名にのし上がった、田中久兵衛吉政の出世物語である。戦国史に詳しい人なら、ずいぶんと珍しい人物に目をつけたものだと驚くに違いない。が、ほとんどの人は「誰だろう」と首をかしげるのではないか。それでも、関ケ原の戦いのあと、逃走した石田三成を捕らえた男といえば、「ああ…」と思い出すかもしれない。また、関白秀次の一の老臣で、関白職を秀頼に譲るよう諫言(かんげん)した人といえば、覚えがあるだろうか。

 関ケ原前後を描いた歴史ものにはよく出てくるが、中心人物になることのなかった男、それがこの物語の主人公・久兵衛だ。作者はよくぞこんな人物を発掘し、血を通わせてくれたと喝采したい。

 久兵衛は16歳のときに農民をやめて武士になろうと立志する。憧れなどとはほど遠く、もっと差し迫った事情からだ。「年貢を奪われて飢える百姓は、犬以下の存在」と、生死のはざまであえぐ戦国の世。人々は食う者か食われる者かに分かれ、農民は常に後者だ。ならば、家族とともに生き残るために、自分は食う側の人間になろうと、久兵衛は決意したのだ。

 「憎悪が生きるための心の糧になる」ほど、過酷な小者の生活を耐え抜き、侍へと出世する。だが、そこもまた、「まっすぐな心の持ち主は生き抜いていけない」世界。久兵衛は、「なんとか二石、せめて一石」のために「汚れ役」を引き受け、人を殺すこともいとわない。

 ここに描かれるのは、自分が生き残れば、その陰で必ず犠牲となった誰かが存在する残酷な世だ。だから、主人公は、爽やかで豪気な英雄ではいられない。あらゆる清濁を併せ呑(の)み、人生に現れる岐路で、誤れば死に直結する決断を、時にだれにも相談できぬまま孤独に選び取り、下していく。

 そのたびに、何かを得、何かを失う。出世して家が大きくなるごとに、求められる能力は増えていく。久兵衛はその変化に懸命に対応するが、守りたかった家族は脱落していく。

 生きるとは何か、人の幸せとは何なのか、そんなことを考えさせられる。目次の章題が見事に久兵衛を表し、切なくなる。ぜひ手に取ってほしい。(光文社・1980円)

 評・秋山香乃(小説家)

あなたへのおすすめ

PR

PR

PR

PR

ランキング

ブランドコンテンツ