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【千田嘉博のお城探偵】岩手・九戸城 「籠城衆殺戮」は本当か 

九戸城の本丸から見た二ノ丸。人骨は写真左奥で発掘された(筆者撮影)
九戸城の本丸から見た二ノ丸。人骨は写真左奥で発掘された(筆者撮影)
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 1590(天正18)年7月、小田原城に籠城していた北条氏が豊臣秀吉に降伏すると、秀吉は東北地方で存続する大名と、その領地を決める仕置を発表した。ところが秀吉の決定は、東北の人びとに豊臣政権の理屈を一方的に押しつけるものだった。東北では一族が分立してそれぞれの地域をまとめ、武士と民衆が一体となった社会を築いていた。

 そのようすは東北の城の発掘からよくわかる。たとえば戦国の東北の城では本丸に城主の御殿があっただけでなく、職人の工房もあった。関東より西では、殿様は城の本丸に、職人は城下の町へと分離した関係が、東北ではゆるやかにひとつになって存在していた。

 納得しがたい秀吉の天下統一に異議を申し立てて、全国で最後に戦ったのが、九戸(くのへ)城(岩手県二戸市)の九戸政実(まさざね)だった。政実は南部一族の有力者で、秀吉が大名に認定した南部信直と南部氏の宗家を争える地位にあった。しかし秀吉の決定によって、政実は信直の家臣にされた。

 1591(同19)年正月に政実は信直への出仕を拒否し、3月に5千の兵で信直方の城の攻撃を始めた。秀吉は信直の援軍要請に応じ、6万もの大軍で9月2日に政実の九戸城を囲んだ。いくたびかの戦いの後、9月4日に政実は籠城者の助命を条件に豊臣軍に投降した。ところが近世の軍記物によると、豊臣軍は城に残っていた人びとを二ノ丸に集め、四方から火をつけて虐殺したという(『九戸記』ほか)。

 そして、1995(平成7)年の二ノ丸の発掘で直径1・8メートルの穴の中から、20~40代の男女の人骨10~16体を発見した。私もこの人骨を実見したが、すべて頭骨を失って斬首されたのが明らかだった。また四肢骨に刀傷が認められる人、腰骨に火縄銃で撃たれた痕跡がある人があって、激しい戦闘を経験したのを理解できた。

 この人骨を、近世の軍記物が伝える豊臣軍の城兵虐殺を証明するものと考える研究者が多いのだが、城兵を皆殺しにした証拠とするにはあまりに数が合わない。九戸城は発掘が進んでいるが、ほかに人骨を発見していない。軍記物が記した二ノ丸の火災痕跡も認められず、記述に疑義がある。そもそも、城の二ノ丸に穴を掘って複数の遺体を埋めたのは異常である。城外に墓穴を設けられなかった理由を冷静に分析する必要がある。

 さらに九戸城を攻めた武将のひとりだった浅野長吉の書状には、反乱の中心メンバー「悪徒人共(あくとにんども)」150余を斬首したと記した。つまり、中心メンバーだけでなく籠城者全員を「虐殺」したとする確実な同時代史料はないのである。

 このように軍記物と発掘人骨を単純に結びつけ、豊臣軍が「戦意を失っていた籠城衆を殺戮(さつりく)した」と断定するのは言い過ぎだと思う。国家はしばしば暴力的である。しかし、だからといって実際にはなかった国家の暴力をつくり出してよいか。私は、九戸城二ノ丸発掘人骨はなんらかの見せしめ、あるいは象徴的な死の痕跡だと考えている。証拠にもとづけば、そう考えるのが穏当である。(城郭考古学者)

 九戸城 南部一族で当地を治めた九戸光政が明応年間(1492~1501年)に築いたとされる。豊臣秀吉の討伐軍に包囲された九戸政実が降伏、開城後は南部氏の拠点となり、地名も九戸から「福岡」に改められた。南部氏の拠点が盛岡城に移る1636(寛永13)年に廃城。1935(昭和10年)に国の史跡に指定された。

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